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『お嬢様と伯爵』(1/3) 

 地方都市カプーチュは夜の闇に包まれていた。
 厚い雲が月の光を遮る中、同化するように黒き翼の蝙蝠が風を切って飛翔する。
 街外れの川沿いから貧民窟を横切って商店街に入り、歓楽街を尻目に住宅街を抜けていく。

 カプーチュは陸にあって流水に囲まれた街だ。
 そんな土壌だからかとにかく水はけが悪く、故に街の中は石畳が敷き詰められている。
 既に夜も深く、自身の羽音以外は穏やかな水のせせらぎだけが世界を構築している。

 流水で囲まれた特殊な地形の街カプーチュ。
 そこには古き良き吸血鬼伝説が眠っていた。

 『お嬢様』、そして『伯爵』と呼ばれる、吸血鬼伝説が。

 街の中をぐるりと回った蝙蝠はやがて中心部にある豪奢な屋敷へと飛んでいく。
 屋敷の二階、広々としたバルコニーへ滑るように侵入すると、ひとつだけ開け放たれたままの窓から中へと入る。

「お嬢様、おかえりなさいませ。夜の散歩は如何でしたか?」

「……、ただいま」

 蝙蝠はその場で二度三度と羽ばたくと、やがてその身を人間の姿へと変えた。
 黒い髪に黒装束と黒の長手袋で闇に溶けるような出で立ちながらも胸元の青薔薇のブローチが印象的な、蠱惑的な美女であった。
 スレンダーながらも各部の筋肉は引き絞られており、決して手弱女たおやめなどと表現できるような女性ではない。

「最悪の気分だわ。蝙蝠になって飛ぶだなんて」

 『お嬢様』マリナ・ソポテックは吐き捨てるように言った。
 そのまま嫌な気分を振り払うよう、足早に『自室』へ戻る。

 カプーチュにおいて、マリナは吸血鬼と化していた。
 それがどんな過程によっていかなる思惑によって『そう』なったのかは重要ではない。
 身体からは体温が失われつつあり、鏡にはその姿は映らず、蝙蝠なんかに姿を変えられるようになり、流れる水や陽の光に対して異常なまでの生理的嫌悪を抱き、夜の闇にあっても鮮明に辺りを見回す事ができるその瞳は真っ赤に染まってしまっている。
 正真正銘の化物だった。

 ここに来てから何日経っただろう。
 そう長くないはずなのに馬鹿みたいに時が流れたような錯覚を起こす。
 長く感じるのは冒険者として自由が奪われたからか、もしくは決心がついたからか。

 置いてあった本を捲ってはみるが頭の中に何も入っては来ない。
 明日からの事を思うと、何も。

「……、」

 『自室』の扉がノックされる。
 マリナは何も返さないが、向こうもこちらがそうである事は知っている。
 『大いなる日輪亭』のボロとは大違いに静かに開くドアの向こうからおおよそ二十代前後ほどの青年が顔を出した。

「お嬢様……またこの狭い部屋にいらして。自室はお気に召さないのですか?」

「あの部屋を気に入れと? ? 随分と無理言うわね」

 唾を吐きかねない調子で嫌味を言っても、青年は悲しげな表情を浮かべるだけで退くつもりはない様子だった。
 青年――ジャックと名乗った――は『お嬢様』に仕える執事、なのだそうだ。
 正確には『伯爵』に仕える一族の出自であり、その命によって執事の役割を振られているらしい。

「もうじき夜明けです。お早めに就寝なさる事をお勧めします」

 青年の口ぶりからすれば、やはり吸血鬼は朝日を浴びると良くない事が起こるらしい。
 マリナの手元の本――およそタイトルにあたるものが表紙にも背表紙にも記載がない――には吸血鬼に関する事物が記されていたが、そこにも同じ記載があった。
 正直その内容については半信半疑であったマリナだったが、ジャックが言及するという事は疑いようもない。
 この本については吸血鬼辞典とでも呼ばれるべき代物なのだろう。

「今夜から伯爵様との『遊戯』を始めるのですから。という遊戯を」

「分かっているわ……、遊戯の説明をしてちょうだい」

 そう、今は遊戯の事にのみ集中するべきだ。
 他の事を考えている余裕なんてない。

 ――いや、実際にはいま自分が置かれている状況を考えたくないだけか?

「遊戯は実に簡単でございます。吸血する事で人間をより多く眷属化したほうの勝利です。場所はこの街に限り、ターゲットとなる住民は私がリストアップしております」 

 ジャックは繊細な装飾が施された目録を開いて見せた。
 中には対象となる住民の風貌や氏名をはじめとした情報が事細かに記されている。

「期間は八日間です。お嬢様が勝利した暁にはが手に入ります」

「……、」

 そう、これこそがマリナが遊戯に同意した最大の理由だった。
 吸血鬼というものは本来、死者に対する呪いだ。
 その強烈な特異性はヒトの肉体を持ったままでは成し得られず、化け物となったマリナであってもその全てを得たわけではない。
 マリナは夜の世界の入り口で立ち止まっている。
 この遊戯に勝利すればまだ引き返せる場所にいる。
 ただし、

「伯爵さまが勝利した場合、お嬢様は心臓を伯爵様に捧げなければなりません」

 何事においてもノーリスクで得られる物なんて高が知れている。
 それが貴重であればあるほど、支払わなければならないリスクは膨れ上がる。
 一方的に吸血鬼にされたというのに人間としての生を取り戻すためには自らの終焉を天秤に掛けなければ成り立たないというのは、いささか理不尽に思えるかもしれない。
 しかし本来であればあの日あの場所で死んでいた身だ。
 遊戯だろうがなんだろうが、生命を勝ち取るチャンスが残っているだけでも僥倖ぎょうこうだ。

(――とでも考えなくちゃやってられないわ)

 当然ながらマリナは聖人君子の類ではない。
 生きるために何かを殺し、時には騙し、常に理不尽を与える側であった元暗殺者だ。
 彼女自身が犯した罪が巡り巡って返ってきた、なんて信じちゃいない。
 もとより自分でない誰かを殺してでも生き抜く決意がなければ暗殺者などやっていられないからだ。

「私にはわかりません。なぜお嬢様がそこまで人間である事にこだわるのか……食事を嫌がっておられたお嬢様がこの遊戯に参加するほどに固執する、その理由が」

「………………」

 マリナは黙して答えない。
 遊戯の内容を鑑みれば明白ではあるが、眷属化の過程で生じるたったひとつの『障害』がマリナの決断を鈍らせ、ひどく苦しめた。

 すなわち吸血である。
 遊戯に勝利するにはより多くの人間の血液を啜り、彼らを眷属として従えなくてはならない。
 聞くところによれば伯爵ほどの吸血鬼であれば一度吸血すればそれで眷属化できるという話だが、マリナのような成りたての吸血鬼では最低でも二度は吸血しなければ眷属化できないという。
 明らかに伯爵有利のシステムであるものの、そこは別の取り決め――というよりは純度の違い――で補われているが、問題はそこではない。

(人間に戻るためにヒトの血を飲め、ですって?)

 マリナが嫌悪したのはまさしくそこだ。
 化け物でありたくないために人間に戻ろうとするのに、その過程で人間である事を捨てなくてはならないとはどういう了見か。
 ふざけている。
 馬鹿げている。
 あまりにもズレている。

(あたしは化け物になんかなりたくない)

 マリナの心には忘れたくても忘れられない深い傷があった。
 彼女の生涯は、鉄臭さと生臭さに支配された暗く冷たい石の地下牢から始まる。
 それ以前の記憶がほとんど残っていないほどに大きな衝撃を伴って、脳の奥深くへ刻まれていた。

 そこにはマリナの他にも大勢の人間が牢に囚われており、大まかに分けて二種類の人間が存在した。
 ひとつは若い男性たち、もうひとつはマリナも属する少年少女たちである。
 しかし一度連れ出されて戻った人間が存在しないのはどちらも同じであった。
 一人、また一人と連れて行かれる度に、地下牢よりもさらに地の底から耳を覆いたくなるほどの悲鳴が上がり、それは幼いマリナの心を削っていく。
 とある山賊に拉致され死霊術を用いる怪しげな組織に売られたというのは後の調べで分かった事だった。

 その地獄のような生活が終了するのは、幸運にもマリナが牢から連れ出されるその日の夜だった。
 組織の内部から裏切り者が現れ拠点をめちゃくちゃにした結果、マリナは奇跡的に脱走に成功する事になる。
 そこで見たのだ。

(あんな、化け物なんかには――!)

 人のような身体を持ち、全身に不気味な鱗を纏った
 彼らは逃げ惑う人々を片端から食い殺し、血に塗れながら死体の山を築き上げた。
 こうしてマリナの幼少期はそれらが重苦しい衝撃として激しく主張するのみとなる。

 黒みがかった赤と生臭い鉄のにおいと絶望の悲鳴だけがマリナにとって『始まり』であり、怪物に対する恐怖こそが根本にあった。

 その後は最寄りの街の孤児院に引き取られる事になるが、マリナの心はほとんど壊れたまま癒える事はなかった。
 翌日には孤児院を飛び出し、どんよりとした薄汚い路地裏に住みつくようになる。
 ふとした拍子に一緒にいる誰かが化け物になって襲い掛かってくる妄想が溢れるからだ。
 人との関わりを極力断ち、闇に紛れて生きるほうがマリナにとってはまだマシだった。

 独りで生き始めたマリナはそれからも闇の中で苦しんだ。
 今度は自分が化け物になってしまうのではないかという妄想に囚われた。
 人間である自分の証明をどうやって果たすか?
 他者からの干渉を受け入れがたいマリナにとってそれは如何とも解決し難い無理難題として立ちはだかるかに思われたが、解決策はすぐそばに落ちていて、それでいて決して侵してはならない領域に存在していた。

 気が付いたらマリナは見知らぬ浮浪者をロープで絞め殺していた。
 どんな理由があってそれに至ったのか、マリナは覚えていない。
 しかし厳然たる事実として残ったのは自らの手で命を奪い取った感触と、いかなる感情――あるいは疲労か?――によってか震える指先を見つめた時に感じた『人間としての自分』の感覚だけであった。

 たかがヒト一人を殺しただけで震えるようなこの身体が化け物であるはずがない。
 ロープや刃物を使わなければヒト一人を殺せないような矮小な存在が化け物であるはずがない。
 ゆえに『何か』を使ってヒトを殺す自分は人間である。

 そんな無理やりすぎる結論を出さなければマリナは生きられなかった。
 他に何も持たない彼女は暗殺者ギルドに出入りするようになり、やがては一端の暗殺者として闇の名を上げるに至る。
 化け物に対する恐怖心は拭えないまま、目を逸らす方法を得てしまった。
 それが人道に背く行為だと分かっていてもやめられるものではなかった。

 とどのつまり、マリナの人生は化け物によって破壊され、今もなお化け物によって苦しめられているというのだ。
 自身が犯した罪から目を背けるために誤魔化しているわけではない。
 他の選択肢が全て奪われた状況で、人道的に正しい事のみを行える人間がどれほどいるというのか。

 だからこそ生きて帰らなくてはならない。
 化け物ではなく、人間として。
 これまで生きてきた全てを否定させるわけにはいかないのだから。

「……お嬢様、今夜のために事前準備を始めましょう」

 ジャックの言葉に頷き、マリナはようやく彼に向き合った。
 もはや後には引けない。

 彼女の名前の由来たる太陽は見えないまま、存在を賭けた遊戯が始まる。



 結局のところ、マリナは伯爵という存在に対して深い知識もないまま遊戯に参加する事となった。
 執事ジャックに訊ねても相当古くから存在する吸血鬼であるとしか分からなかった。
 しかし伯爵に仕えるフランケンシュタイン家の現当主、つまりジャックの祖父であればそれも知り得るだろうが今や敵方だ、聞けようはずもない。
 
 なぜ伯爵は心臓を欲するのか。
 なぜ力尽くではなく『遊戯』を介すのか。
 その真意は直接本人に訊ねるしかないのだろう。

「……、」

 しかし、今はそのような些事にかまけている場合ではない。
 この遊戯に勝たなければ心臓を奪われる。
 ヒトとしての再生を望めない身体にされるのだ。

 勝つために戦略も練った。
 街の地形は把握したし、遊戯に際して事前に渡されたターゲットの情報も読み込んである。
 だが、伯爵はこの街に長く住みついた吸血鬼だ。
 ここまでやってようやくスタートラインといったところだろう。

 遊戯のルールとして、伯爵は一夜に一度、お嬢様たるマリナは一夜に二度までの吸血が許されている。
 吸血鬼としての経験の浅いマリナが不利になりすぎないように設けられたものだろうが、そう何度も血を吸いたくはないマリナにとってはありがたい取り決めだった。
 事前にジャックより眷属化=吸血鬼化ではない事を知らされていなければ、そもそも遊戯自体に参加する事はなかったほどだ。
 マリナとしてはより少ない吸血回数で勝利するのがベストではある。

(では、一体何が勝敗を分けるのか?)

 勝負事で優位に立つには相手を妨害する事が挙げられる。
 その点で言えば二度吸血しなければ獲物を眷属化できないマリナは最初から不利だ。
 一度吸血しておいた獲物を長く放置してしまうと一度の吸血で眷属化できる伯爵に横合いから掻っ攫われる可能性がある。
 狙いの相手が見つけられないからと広範囲に唾を付けていく作戦は愚の骨頂、という奴だ。
 標的を定めたのなら次の夜には眷属化しておかなければ全て奪い去られると考えていたほうがいい。

(では、目標をどう定めるか?)

 問題になるのは初日の夜――つまり今宵――においては伯爵が見つけた獲物は必ず眷属化してしまう事だ。
 この時点ですでに数的不利が発生し、マリナの標的は次の夜には必然的に奪われる危険が発生する。
 故に、マリナが標的とすべき相手はを選ぶ必要がある。
 無茶苦茶な話ではあるが、向こうが一夜で一人の眷属を増やすというのなら、こちらは二夜で二人の眷属を得なくてはならない。

(では、何を主軸として動くべきか?)

 お互いが最善の行動を取ったと仮定した場合、重要となってくるのは『眷属となった人間はその家庭や職場の人間を眷属として捧げる』というルールに他ならない。
 仮に眷属化した人間が少なかったとしても、より顔の広い人間を眷属としていれば勝利する可能性はある。
 そして眷属とした人間には個別に指示を出せるようになり、ターゲットリストの中には超常的な力を持つ人間も混じっているという。
 遊戯を遊戯たらしめる要素であるとジャックは言っていたが、遊戯を進行する上で伯爵とお嬢様の間でそれぞれ自身の持つ能力を駆使した妨害は認められておらず、かつ戦闘行為も封じられているため、彼らの能力は無視できない大きな戦力となる。

(結論。顔が広く、より盤面を有利に進められるような力をもつ人間を選び、伯爵より先に眷属化する)

 単純で、思慮が浅く、それでいて難易度が高いながらも最善の目標だ。
 まるでどこぞのが言い出しそうな結論が出てしまい、小さくため息をつくマリナであった。

 そろそろ遊戯の始まる時刻となる。
 まずは何をおいても目的地を決めなくてはならない。
 カプーチュの街は川によって周囲をぐるりと囲まれているとはいえ、その広さは相当のものがある。

 街の中央に近づくにつれ生活水準は上がる傾向があり、自然とその中に貴族の邸宅や住宅地、商店街などの人口密度が高い施設が軒を連ねている。
 そしてそれらを囲うようにある一方は歓楽街が、またある一方はスラムや闇市がのさばる貧民窟が存在する。
 街外れには打ち捨てられた廃墟の並びがあり、その中に貧しい孤児院がぽつんと辛うじて息をしている。
 また川沿いには旧時代の遺跡があるが、すでに内部はもぬけの殻となっていて滅多に人が寄り付かない。

(……先の結論に当て嵌めると)

 伯爵は夜早い時間帯に少しだけ活動し、一夜分の血を吸ってさっさと居城へ戻ってしまうという。
 であれば空振りになる可能性が高い廃墟や遺跡なんかには寄り付かないはずだ。
 逆に、夜が更けていようがお構いなしに人間が集まる歓楽街や各々のねぐらである住宅街といった場所を選ぶ可能性が高い。
 マリナが伯爵の立場であったとしたら、まず間違いなくそうする。

「……、」

 だのに、マリナはそうはしなかった。
 蝙蝠の姿となって屋敷から跳び出し、まるで羽虫のように光を求め、滑るように街を飛行する。
 やがて目的の場所へたどり着いたマリナの前には、派手な怪鳥の仮面を被った人物が立っていた。

「偶然か、必然か……。どちらであっても、面白い邂逅だ。なぁ、マリナ」

「……伯爵」

 マリナが求めた姿ははたしてそこに在った。
 すべての元凶たる吸血鬼にして、遊戯の相手である伯爵。
 あの日と変わらず酔狂な衣装を好んで身に着けているようだが、しかしその過剰なまでの被り物でも内に潜む威圧感は抑えきれていない。
 否、わずかに漏れ出る伯爵の声が、呼気が、存在感が、マリナの心を縮こまらせているのだ。

「まだそんな見窄みすぼらしい格好をしてるのか。よほど冒険者に執着があるようだ。……だが、よく聞け」

 怪鳥の羽を揺らしながら、しかしその鋭い眼光はまっすぐにマリナを見据えている。
 すでにそれだけでマリナの脳内から伯爵から聞き出そうと目論んでいた考えは全て消失していた。

 しかし、この場においてはあの夜のように狩る者と狩られる者の立場ではない。
 伯爵とそれに対するお嬢様として、遊戯の相手として、マリナはここにいる。
 その場から逃げ出したい気持ちをぐっとこらえ、マリナは奥歯を噛み締めて立ちはだかった。

「貴方は戻れない。貴方は私には勝てない。貴方は永遠に化け物なのだ」

「……黙れ!」

「無駄な努力だと思うが、精々足掻く事だな」

 余裕の笑みをこぼしながら、怪鳥の仮面は多量の蝙蝠となって闇夜に溶けるように消え去った。
 伯爵の存在感の一切がなくなった事を確認すると、マリナはそっと近くの塀にもたれ掛かった。
 すでに脚は震え、立っているのもやっとというところだ。

(大丈夫……、あたしは負けない……目的は、果たしているのだから……!)

 ここまで精神的なダメージを受けるとは考えていなかったが、それでもマリナはやり遂げた。
 遊戯の始まる前夜、ジャックから受けたアドバイスの中にひとつだけ看過できないものがあった。
 すなわちお嬢様自身による直接的な吸血の妨害である。

 それは一夜に動き回れる時間の多いお嬢様側でなければ意味はなく、かつ伯爵側からすれば最も不快な行動であった。
 理想論で言えば、毎夜毎夜の伯爵の動きさえ把握し、妨害できれば少なくとも負けはない。
 何しろあちらは眷属をゼロより大きくできず、こちらは一人も眷属化できなくても引き分けには持ち込める。

 遊戯に際して、マリナは十分に策を練った。
 それでも全ては机上の空論、確実性に欠けるものに己の運命を賭けられるほどマリナは愚かではない。
 多少心が揺さぶられようと、自身の策が信頼するに値する事を自らの行動で証明しなくてはならなかったのだ。

 だからこそ最初の夜、こうして伯爵の向かう先を予測して見事出会えたのだから、まったく無駄な一手ではない。
 この遊戯、無策にただひたすら眷属化を進めていくならばお嬢様はかなりの確率で敗北する。
 だが相手の動きを予測してあらかじめ罠を張るなど対策を立てていれば、そしてそれらが一度でも成功すれば、お嬢様は途端に優位に立つ。
 伯爵の一手遅れは致命的ではないものの、二手遅れに繋がってしまえば敗北が見えるのだから。

(くそ、……なんで。どうして……脚が、動かない……!)

 今はこうしてへたり込んでいる時間も惜しい。
 伯爵の動きを先回りできたのなら、自分の練った策を信じて少しでも有利になれるよう立ち回る必要がある。
 だのに、下唇を噛み締めて震える脚を叩いても、一向にその脚は言う事をきかなかった。
 遊戯の最中であれば危害を加えられる事はないと分かっていてもこの様だ。

(……こんな時、)

 マリナの脳裏には鹿の姿が映っていた。
 あの男なら、こんな時でも身も心もボロボロになっても這いつくばって動き出すはずだ。
 馬鹿だから理屈が通じないというのもあるだろうが、きっとあの男はこう言うのだろう。

『よく分かんねえけど、今じゃねえとダメなんだろ!? ほら行くぞ!』

 まるで曇りない眼で未来を見据え、希望を目指して進んでいくのだろう。
 他人の苦労も知らないで、しかしそうと分かれば全力で助けて、不器用ながらもそうやって前に進むのだ。
 あの馬鹿は、そんな存在だ。

「……こんなところで立ち止まって。どっちが馬鹿なんだか」

 気が付けば脚の震えは止まっていた。
 朝陽が昇ろうと動けまいと思っていた脚が動き、小さな一歩を踏み出せた。

(大丈夫。まだ、前に進める)

 あとは体力との勝負だ。
 夜が続く限り周辺を駆け回り飛び回り、獲物を探し出さなくてはならない。

 しかし事がそう何度もうまくいくとは限らず、結局一日目の夜は眷属となり得るターゲットは見つけられずに終わった。
 まるで戦果なしというわけではないもののやはり眷属を増やせないというのは致命的だ。
 夜通し動き回ったせいか、マリナの足取りも心も沈み気味のまま屋敷へと戻ったのだった。
 屋敷に戻ると、いつも通りに執事のジャックが恭しい礼をもって出迎える。

「お嬢様、おかえりなさいませ。……どうかなされたのですか?」

「は?」

「いえ、その……どこか、機嫌が悪いような……」

 怯えを見抜かれたかと思い、マリナは一瞬強張ったが、すぐに小さくため息を吐いた。

「……出向いた先で伯爵に会ったわ。まったく、伯爵の仮面を思い出すとムカつくわ」

「しかし、伯爵様に会ったという事は伯爵さまの吸血活動を邪魔できた……という事ですよ、お嬢様。対戦相手を妨害する事も勝利への近道です。ここは感情を抑え……」

「――そんなの!」

 かっとなって叫んで、マリナは唐突に冷静さを取り戻した。
 ジャックの言い分は正しい。
 だが、そこにはマリナが負うべき精神的な痛みは一切考慮されていなかった。

「……分かっているわよ、ジャック。勝つため、でしょ」

 当然だ。
 彼はお嬢様でもなければ伯爵に殺されてもいない。
 マリナの痛みはマリナにしか分からない。
 分かってはいても、ふとした拍子に叫び出したくなるくらい心が弱っているのだろうか。

「眉間に皴が寄ってしまっています。お嬢様、もう少し……」

「力を抜いて笑って見せろとでも言うの?」

 ヒトを殺さなければ生きられなかったような、こんな女に対して笑顔をつくれというのか。
 無論、ジャックに対してマリナの過去は一切話していないし、話すつもりもない。
 だからこそ彼は『普通の女性』に接するように話しかけてくるのだろう。

「――それは。確かに現状では無理でございましょう。しかし、私は……」

 まだ何かを言わんとしたジャックの口を、マリナは一瞥して封じ込めた。
 いや、彼自身が飲み込んだのか?
 ともかく、屋敷には一瞬の静寂が取り戻された。

「遊戯はまだ始まったばかりです、お嬢様。まずは少しずつ眷属を増やしていくべきだと思います」

「そうね」

 やや生返事気味になったのは意図しての事ではなかった。
 さすがに目視で外を見るわけにはいかないが、彼女の体内時計はそろそろ夜明けだと警鐘を鳴らしている。
 それに精神こころと身体の疲労が加わり、重くなっていくまぶたが思考を邪魔している。

「寝るわ」

「……お嬢様、おやすみなさいませ」

 ジャックの声を背にマリナは不本意ながらも自室へと歩んでいく。
 非常に気に入らないが、やはりあの棺桶の中ではないと寝なくてはならないのだろう。
 憂鬱な気持ちになりながらも眠気には抗えず、マリナは何度目かになる棺桶での就寝を体験するのであった。



 マリナの練った妨害策の有用性は示された。
 しかし、相手も知性ある吸血鬼である。
 ただひとつの策が嵌り続けるなどありえない。

 そもそも妨害するにあたっての目的地選びそのものが勘によって決められているのであれば、外れる可能性のほうが高い。
 事実、二夜目にしてさっそく居場所を外してしまった。

(……焦ってはいけない。まだ負けたわけじゃない)

 ただ一手誤れば覆されるような策ならば、それはそもそも策足り得ない。
 そのために目標を決めておいたのだから。
 つまり、盤面を有利に進められるような力をもつ人間を選び、伯爵より先に眷属化する事だ。

 重要なのはマリナが狙うその人物が伯爵にとって有利に働く力を持っておらず、おそらくは手に入れ難い獲物であるという点だ。
 伯爵とお嬢様の間に存在する有利不利を埋めるための、そんな力。
 遊戯のルールを聞いた時から、そういった人物が存在する事は容易に想像できた。

 すなわち、をもった人間がターゲットの中に存在するはずだ。

 有利不利を覆すにはマリナが伯爵と同じ条件、すなわち一度の吸血で眷属化できるように呪いを強化する、あるいは伯爵がお嬢様と同じ条件まで落ちる事が挙げられるが、そこまで吸血鬼の力を増減させられる存在が容易に存在するとは思えない。
 しかし、追跡術式であれば一端の魔術師でもどうにか使える程度の術式のはずだし、何より伯爵の吸血妨害がルールの中である以上、可能性は否定できない。
 その人物さえ引き込めれば、おそらく以降の伯爵の動きは大幅に制限できる。

 もとより特殊な力を持つ者が集まりやすい場所と言うのは示唆されている。
 マリナが狙ったのはまさにそこだ。

 目的の場所に降り立ったマリナは人気を探してしばらく歩き回った。
 そしてようやく見つけた第一発見者がターゲットリストに記載のあった人物と合致した。

 ついに訪れたこの瞬間に、マリナは柄にもなく息を呑む。
 この時ばかりは冷徹な暗殺者の覚悟でいるつもりであったが、愚かしくも脚が言う事をきかない。
 もたもたしていてはいずれ相手に気づかれ、そうなれば逃げられる事は明白だ。
 幸いにも辺りは暗く、暗殺者の本領を発揮する舞台は整っており、さらに吸血鬼となった事で身体能力も向上している。

 逃げられるはずがない。
 そう、この脚さえ動けば相手が何者であろうと逃がさない自信はあるのだ。

(……どうして動かない!)

 マリナの両脚はまるで石化したかのように固まってしまっている。
 それどころか小刻みに震えて、ともすればそのまま座り込みかねない。

 何が覚悟したつもりだ。
 獲物を前に躊躇するような雑魚のどこが暗殺者だ。
 ここであの獲物を逃がしてしまうような事になれば、もっと悪い未来にしか辿り着かないと分かっているくせに。

 そうこうしている内に、やはりというか当然というか、『獲物』がマリナの存在に気が付いた。

(終わった――!)

 マリナは思わず目を伏せた。
 ここであの『獲物』がどんな行動に出ようとも、マリナには成す術がない。
 その場に留まったとしても気づかれた上での吸血には自信がなく、逃げるのならばその背を追う事はできない。
 なぜなら、逃げ惑う人間を背後から襲い掛かって血を吸うなんて蛮行をマリナが取れるはずがないのだから。

「――、――――――」

 しかし、マリナの予想は全てを外していた。
 『獲物』はまるでマリナが訪れる事を予知していたかのように振舞い、自らその首筋を差し出したのだ。
 今度は別の意味で震えが止まらない。
 かの『獲物』は魔術に疎いマリナですらそう感じ取れるほどに、自身が探し求めた力をもつターゲットに違いないという確信があった。

 肉は切られ、味を調えられ、よく火が通された。
 皿に盛りつけられ、ナイフとフォークはぴかぴかに磨かれている。
 椅子が引かれ、座ったその膝にはテーブルナプキンが広げられている。
 それでもまだ食えないなどと宣おうものならマリナが良く知る馬鹿以上の馬鹿だ。

「――、ッ!」

 意を決したマリナは『獲物』の首筋に生えてきたばかりの牙を突き立てた。
 ぞるっ、と気味が悪いほど滑らかに牙が肌を食い破り、そこから熱い血液が溢れてくる。
 血液が舌に触れる。

(っ、うあ――!!)

 ダメだ。
 あってはならない。

(なんで、こんな――!!)

 例えるならそう。
 かんかんに照り付ける太陽の下、砂漠を練り歩いた末に見つけたオアシス。

――!!)

 そうであるのが自然だと錯覚するほどに。
 人間の血液はマリナの舌によくなじみ、気が付けば喉を鳴らして何口かの血液を飲んでいた。

「――っはぁ」

 慌てて口を放したが、目の前の『獲物』はぐったりとしてはいたが意識は保っていた様子で、しきりに『気にするな』と首を横に振るばかりだった。
 首が揺れるたびに目に入る傷口と、そこから流れる赤い液体がじりじりと理性を炙る。

 ダメだ。
 このままでは殺すまで吸ってしまう。

 マリナは急いで『獲物』を突き放すと、そのまま屋敷に向かって走りだした。
 しかしそれも長くは続かず、わずかもせず体内に異変を感じて立ち止まる。

「うっ、ぐ……! おえぇっっっ!!」

 堪えきれず、マリナは血液混じりの胃液をぶちまけた。
 まるで細い針で何度も何度も刺されているかのように腹部がきりきりと痛む。

 深く考える必要もない。
 あれほど忌避していた吸血行為を、あろう事か途中から止められなくなるほどにのめり込んでしまったのだ。
 化け物でありたくないと思っていても、自身がそうであるとまざまざと見せつけられてしまえば過度のストレスが襲い掛かるのは明白である。

「でも……これでいい……あたしが吐いても、眷属にはできる……」

 吐いてしまってもいい。
 どれだけ取り繕ってもマリナはお嬢様、要は襲う側の立場だ。
 そこに快楽を感じるなどあってはならない。

「あたしは……化け物にはならない……!」

 まだまだこみ上げてくる吐き気を抑えようともせず、マリナはひたすら胃の中のものを追い出し続けた。
 やがて胃の中が空になると、力なく蝙蝠と化して屋敷へと戻った。
 まだ夜は明けない時間帯だったが、精神的な疲労がひどく、ジャックとのやり取りもそこそこに早々に棺桶に横になった。

 吸血が原因かどうかはさておくとして、この夜、悪夢を見た。
 初めて血を飲んだ時の夢。
 マリナが本当の意味で化け物となった時の夢。

 遊戯が始まる少し前、お嬢様の屋敷で迎えた何度目かの夜の出来事だった。
 目の前のグラスに満たされた赤い液体が甘い香りでマリナを誘惑してくる。
 昔は嫌悪しか抱かなかったはずのにおいが、今では麻薬のように彼女を蝕む。
 マリナが化け物なのだという事実を訴えかけてくる。

『……嫌になるわ』

『お嬢様、お飲みにならないとお体がもちません。どうか、私のためと思って』

 いくらジャックが献身的に尽くそうとも、やはりマリナの内にある恐怖の炎は熱を失っていない。
 感情が迸るままにグラスの中身をそこらに放り捨てて、空のグラスをジャックに押し付ける。

『……紅茶を持ってきて』

 顔も見ずにそれだけ伝えても、ジャックは素直に「……かしこまりました」と応えて部屋を出た。
 それにしても普段冷静なマリナが感情に任せて動いてしまったのは失敗だったと言わざるを得ない。
 グラスの中身を投げ捨てたせいで血のにおいが部屋中に広まってしまった。
 甘い香りで頭がクラクラする。

 紅茶なんかよりも先に片づけてもらうべきだった。
 今の身体では紅茶なんて泥水の味にしか感じないのだから。

『……紅茶の用意ができました。どうぞ、お熱いのでお気を付けください』

 ややあって戻ってきたジャックは繊細な装飾のティーカップに紅い液体を注いだ。
 今日の茶葉はアールグレイだと言うが、正直マリナの舌では――たとえ人間の舌であったとしても――茶葉の違いなんてよく分からない。

『お嬢様、ティーロワイヤルをご存知ですか? 角砂糖にブランデーを染みこませ……』

『……どうだっていいわ』

 何かと気を使ってくれているのだろう、というのは分かる。
 分かるだけに、どうか放っておいてほしいという気持ちにも気づいてほしかった。
 そんな事を考えつつ、部屋から立ち上る甘い血のにおいから逃げるように紅茶に口を付ける。

(……美味しい)

 紅茶が。

……!?)

 泥水の味じゃ、ない。
 ならば、これは、一体。

『……誠に僭越ながら』

 眼を丸くしたままのマリナに対し、ジャックはあくまで静かな声で続ける。

『この紅茶には角砂糖を溶かしておきました。……血を染みこませた角砂糖を』

 繊細な装飾を弾き飛ばしながらティーカップは粉々に砕け散った。
 無意識のうちに腕から力が抜け、床に叩きつけられたのだ。
 撒き散らされた熱い紅茶が脚を焼いてもマリナはそれどころではなかった。

 気が付かなかった。
 血のにおいがすでに充満していたから。
 紅茶の異変に気付かなかった。

(気付かなかった――!!)

『……っ! お許しください、お嬢様……! お許しを――!!』

 ジャックの行動は真にマリナを慮っての事だった。
 それはマリナも理解している。
 それでも、彼を許し切れてはいなかった。


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周摩

Author:周摩
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