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リプレイ記:月歌を紡ぐ者たちの記事一覧

『ガラス瓶の向こう』(2/3) 

「ぼうけんしゃ? どうした?」

「お聞きしたい事がありまして」

 ルナはひとまず戻らない記憶を取り戻すところから始めた。
 十中八九、この空白の箇所に何かが起こって今に繋がっている。
 アラクネと戦った墓場での出来事は、きっとこの獣人の墓守が知っているはずだ。

「おれ、おまえ、すき。きいて。こたえる」

「私が怪我をした後、もう一人の冒険者は何処へ行ったかご存知ですか?」

「ん。きょうかい、いく。ぼうけんしゃ、いってた」

 教会。
 ただの怪我であるならば、薬師でも癒し手でも探せばいいだろう。
 特にコヨーテは半吸血鬼であり、教会に足を踏み入れただけでもその雰囲気のみで体調を崩しかねないのだ。
 ルナが聖北所属のシスターである事を差し引いても、わざわざ教会を頼った事実がルナの意識を乱す。

(確かめる必要がありますね)

 墓守に礼を言って、ルナは教会を目指した。
 アンレインの聖北教会は美しいと言うよりも豪奢である。
 潤沢な資金をつぎ込まれたそれは、まるで王族の屋敷のようだ。

 絢爛豪華――それは、らしくない。

「教会というのはもっと荘厳な美しさであるべきではないでしょうか……」

 気分のいいものではないですね、と独りごちてルナは教会へ足を踏み入れる。
 内装もこれまた豪奢の一言に尽きた。
 コヨーテではないが軽く眩暈がするほどに。

「どうかされましたか? ……おや、これは冒険者さん」

 顔を上げてみると、整った顔立ちのシスターがこちらを窺っていた。
 労わるような言葉ではあったが、その実、シスターはまるで作り物のように無表情だった。
 それも、教会という場においてはらしくない。

 しかし、ルナが違和感を覚えたのはそれだけではなかった。
 ルナの記憶の中ではこの教会に足を踏み入れた事も、このシスターに会った事もない。
 訝しがっていると、シスターは「ふむ」と顎に手を当てて、

「その様子では記憶が戻りつつあるのでしょうか」

「……やはり、あなたは何かを知っているのですね」

「やれやれ、そんな怖い顔をなさらないで。――お話しますよ。全て、ね」

 含みを持たせたような言葉だった。
 嘲笑うような感覚はない、むしろ哀れんでいるような、そんな感覚。
 無感情な表情と声だったが、その言動の端々で表情を作っているようにも見える。

「――確かにあなたとあの方は教会にいらっしゃいました。

「ただの怪我で、ですか?」

「いいえ。思い出せないのですか?」

 シスターは静かに右手を挙げ、天を指した。
 つられて、ルナも天井を見上げる形になる。

(あ……)

 この天井は、見覚えがあった。
 いや、という不思議な感覚ではあるが、確かに記憶している。
 記憶の奔流を感じ、ルナは待ちかねたとばかりに記憶を手繰り寄せた。


「――何とかなりましたね」

 通り雨のような音が連続している。
 それはアラクネが黒狼に腹を食い破られ、盛大にどす黒い血を撒き散らしている音だ。

 ルナは緊張の糸が切れてしまい、その場に座り込んでいた。
 血の雨を避けるようにアラクネの傍を離れたコヨーテは、【レーヴァティン】を霧にして『真紅のリボン』へと仕舞い込む。

「……感じるか? 恐ろしい魔力だ」

「ええ、死してなおこんな魔力を帯びているなんて――」

「――ッ! ルナッ!!」

 名を呼ばれて、ルナは反射的にコヨーテのほうを向いた。
 しかし次の瞬間には視界が勢いよく揺れ、頭に衝撃が走ったと思うと糸が切れたように真っ暗になる。

「――ええ。あなたの見立て通り、その方は呪われています」

 気がついた時には薄ぼんやりした視界の向こうに複雑な構造の天井が見えた。
 耳に入ってくるのはやたらと遠くから聞こえてくるような、コヨーテと女性の会話だけだ。

「多量の出血と強い負の魔力に侵されて、このままでは今夜が峠でしょうね。アラクネの怨念とは恐ろしいものです」

 苦しい。
 呼吸するのが億劫で仕方がないのに、止めようとすると死んでしまう。
 だというのに深く息を吸おうとしてもできない、その原因を突き止められるほど頭が回らない。

「この呪いでは治る傷も治りません。ここに来たのは賢明でしたね」

「解呪できるんだな?」

「もちろんです。ですが……お代は頂きますよ。ざっと、これくらい」

 コヨーテは言葉を詰まらせた。
 具体的にその女性がどのくらいの金額を要求したのか、ルナには分からない。
 だが、相当の無理難題だという事はなんとなく理解できた。

「払えないというのでしたら――そうですね、頼みたい仕事があります。どうぞ、こちらへ」

 靴の音が遠のいていく。
 一瞬の間の後、ルナの手に誰かの手が重なった。
 『誰かの手』じゃない、これは『コヨーテの手』だ。

「必ず、助ける……待っていてくれ」

 こちらを覗き込んだコヨーテの表情は、まるで彼も大怪我をしたように辛そうで苦しそうで。
 とても危うかった。
 コヨーテの手が離れ、再び足音が遠のいていく。

 静まり返った中でルナは目を閉じ、深く暗い意識の底へと転がり落ちていった。


「――あなたが!!」

 思わず、ルナはシスターへと掴みかかっていた。
 詰め寄られたにも関わらず、シスターはまたしても無感情な視線で返すだけだ。

「ああ、やっぱり。せっかく記憶を封じたというのに、こうもあっさり思い出されてしまうとは。あなたのパートナーもきっと嘆くでしょうね。記憶の処理はあの方の望みだったのですよ?」

「コヨーテに何をしたのか、答えなさい!」

「ああ、怖い怖い。落ち着いてください。あなたのためだったんですよ?」

「……、」

「こちらとしても解呪の報酬を貰わなければなりません。あなたに施された呪いは並大抵の力では到底太刀打ちできない物でした。ですので――」

 シスターは諸手を挙げた。

「費用は銀貨にして一〇〇万枚を提示しました」

「んなっ……!?」

 開いた口が塞がらない。
 一介の冒険者が用意できる金額ではない。
 よほどの富豪でもこの金額は支払えないか、あるいは出し惜しみするだろう。

「どうしてそんなに驚くのです? アラクネの魔力は相当なものでした。死に際の怨念も含めた強力な呪いです、正当な報酬だと思いますが」

「それが……」

 驚いたのは、何も額面だけにではない。
 ルナも彼女と同じく聖北教会のシスターであり、同じ教えを受けてきたはずなのだ。
 呪いに苦しむ人間を前にしておきながら個人では到底支払えないような額を対価として提示し、交換条件を突きつける。
 そんなのは、教会のあり方では断じてない。

「それが聖職者の言葉ですかっ!」

「ええ」

 シスターは一切の躊躇もなく、そう言い切った。
 ここまで無感情にものを言う人間を、ルナは知らない。
 恐怖すら感じられる。

「この街は、いえ――世の中はお金で回っているのです。あなたも私も、きっと神だってね」

「なんて事を……!」

「あなたがどう思おうと、あなたがそのお金によって助けられた事実は変えられない。もっとも、今回は仕事の報酬としてであって直接頂いたわけではありませんが。それに、冒険者ならばそういうのも日常茶飯事なのでしょう?」

「一体、何を……コヨーテに、何をさせたんですか……?」

「目には目を。歯には歯を。解呪には解呪を――あの方には、我々では手に余るものを対処して頂きました」

「それは――」

「お答えできかねます。……それが、あの方との契約ですから」

「え?」

「さあ、お引取りください。これ以上は自警団を呼びますよ」

 これ以上話す事などないとばかりにシスターは背を向けた。
 まだ情報が出揃っていないのだが、言葉通りに自警団を呼ばれてしまっては面倒だ。
 成す術を失ったルナは、半ば追い出される形で外に出た。

 教会から離れ、路地を歩くルナの足取りは重かった。

「私を助けるために、一体何を請け負ったんですか……」

 銀貨一〇〇万枚の仕事なんて、それこそヒト一人の命で賄えるものではない。
 そう断言できるほどに現実離れした額だ。

 もしかしたら、もう手遅れなのかもしれない。
 真相を暴いてもどうしようもないものかもしれない。

「でも――」

 そんなネガティヴな考えは捨てろ。
 無理だから何だというのだ。
 無駄だから何だというのだ。

 ルナ一人の命のためにコヨーテは得体の知れない何かを請け負った。
 それを思えば砂粒よりも小さい可能性を求めて命を張るくらい、ルナにだってできるはずだ。
 恩だとか義理だとか、そんな次元の話では断じてない。

(好きな人が苦しんでいるのに……ここで動けないようなら、私には他人を愛する資格なんてありません)

 自分の両手で、思い切り頬を叩いた。
 さっきまでのうじうじとした考えを痛みで追い出したのだ。

「……まずは、コヨーテが請け負った仕事の内容を明らかにする必要があります」

 まるで導かれるように、ルナは歩みを速めた。
 目的地はすでに決まっている。

 コヨーテは『霧断ちの門』でルナに一人で帰れと言った。
 どうして一人で、なのか。
 答えは簡単、請け負った仕事がまだ終わっていないからだ。

 傷と呪いがこうして跡形もない以上、教会側は先払いというリスクを背負っている。
 銀貨一〇〇万枚の仕事なんて、ルナが目覚めたのであれば仕事を放棄して逃げても不思議じゃない。
 であればコヨーテがああして街の出入り口である『霧断ちの門』に近づく事すらも警戒してしかるべきだ。
 霧で馬車が動かないだろう、というのはいくらなんでも楽観的すぎる。

(つまり、導き出される答えは――)

 教会はコヨーテに対して何らかの『鎖』を仕込んでいる。
 仕事が終わるまでか、はたまたその命が尽きるまでかは分からない。
 しかし、『鎖』が存在するという事は数少ない手がかりだ。

(どちらにせよ、私にはこれしか残っていないのですけどね)

 ルナが向かった先は借りた宿の一室だった。
 その部屋には、ついさっき襲われた時と同じようにベッドに横になるコヨーテの姿がある。
 トラウマのように記憶が蘇り、少しだけ躊躇したものの、ルナは意を決して彼に近づいた。

 呼びかけても返事がなく、どうやら今度は深く寝入っているらしい。
 追求したところで答えるはずもなく、不謹慎ではあるものの眠っていてくれて助かった。
 彼の額には汗が浮かんでいて、呼吸も荒い。
 濡れて張り付いた前髪をそっとかき分ける。

「必ず、助けます……だから、待っていてください」

 コヨーテの手を握ると、わずかに握り返す反応があった。
 まるでその決意を受け取ってくれたような気がして、ルナの視界が滲む。

「――あれ?」

 ふと、微かに嗅ぎなれたにおいがする事に気がついた。

「アルコール?」

 それは確かにコヨーテの呼気に乗って漂っている。
 酒を飲んだ、という事か。

「――っ、ありえない!」

 少なくとも首を絞められた時には酒のにおいはしなかった。 
 であればルナと分かれた後で飲んだとしか考えられない。
 だが、いくらコヨーテでも真昼間から酒を飲んで寝てしまうような堕落はしないはずだ。

 おそらく、彼はそうせざるを得ない状況にあったのだろう。

「あった……!」

 部屋の中を調べ回り、ようやくソファの下にそれを見つけた。
 美しい細工の施されたガラス瓶だ。
 栓を抜いてみれば、やはり件のアルコールのにおいがする。

「私の前では飲みませんでしたから、まさか……これが」

 ルナが酒好きだという事は、ちょっと付き合いが長ければ誰だって知っている事だ。
 こんなあからさまに高級そうな瓶に詰められた酒をその辺に放置していては、――ルナにとっては恥ずかしい事だが――間違いなく追求する。
 わざわざソファの下に隠していたのだから、その用心深さは並大抵のものではない。
 十中八九、これがコヨーテの請け負った仕事に関わるものであるのは間違いなかった。

「……これ、少しだけお借りしますね」

 今のコヨーテにしてあげられる事は何もない。
 ルナはガラス瓶を手に部屋を出る。
 目的地は決まっている。
 この瓶に詰まっていたものが酒だとしたら、本職に訊ねるのが一番手っ取り早い。



「こ、こいつは……」

 酒屋の主人に件のガラス瓶を見せたところ、明らかに知っている反応を見せた。
 出かける前に店主にも瓶について訊ねてみたが、仮にも宿屋の主がまるで初見のような反応をしていた。
 それはつまりこの酒、ひいてはこの酒瓶が一般流通するような代物ではない可能性が高い。
 予想が的中した事にルナは内心歓喜する。

「知っているお酒ですか?」

「……、じい様に聞いた話だ」

 酒屋の主人は俄かに声を潜めた。

「アンレインには今も昔も金が集まる。時が違えど自分の保身の事しか考えないのが金持ちってもんだ」

 ルナの脳裏にはアラクネ退治を依頼した夫婦の姿が思い浮かんだ。
 旦那さんはともかく、奥さんのほうは資産家を絵に描いたような典型的なタイプだった。

「じい様が店を出していた時代、アンレインの富を一身に受けていたのは占い師でもある一人の魔術師だった。そいつは甲斐甲斐しくアンレインの住民の役に立っていたが実は裏の顔があった……そいつはな、快楽殺人鬼だったのさ。殺しの方法はいたってシンプル――」

 酒屋の主人は両手で円を作って、

「――首を手で絞めるんだ」

「っ……!」

 ぞくりとした悪寒が首元をなぞる。

「しかしなかなか魔術師は捕まらなかった。そりゃそうだ、まさか魔術師が絞殺なんて野蛮な行為をするはずがないと思われていた。しかもアンレインの金持ち連中は魔術師の占いに首っ丈……迷宮入りしてもおかしくない事件だったさ」

「……でも、そうはならなかった?」

「周囲が殺人鬼の正体に気づく頃には、そいつは逃げちまってたんだ。

 やけに抽象的な言葉で話を締めくくった酒屋の主人に対し、ルナは首を傾げる。

「……それと、この瓶に何の関係が?」

「その瓶はなぁ、そっくりなんだよ」

「何と?」

「魔術師が逃げ込んだ、ガラス瓶に」

「……はい?」

「奴は自分の魔術の知識を総動員して液体に自分自身を溶け込ませた。そして俺のじい様はその酒を売った張本人……言われたらしいぞ、『いい酒をありがとう。しばらくは満足できそうだ』ってな」

 独り言のように「命拾い、したんだろうな」と呟いて、酒屋の主人は煙草をふかした。

「で、その瓶は発見されるや否や破壊されるはずだったんだが、そこは魔術師抜かりはなかった。しっかりと破壊されないように魔術で防御されてたらしい」

「……そのお酒を飲んでしまったらどうなるのでしょう?」

「さあ? 大方、新しい住処にでもされちまうんじゃねぇか……って、まさかあんた飲んじまったのか?」

「連れが、もしかしたら」

「あれは教会に納めたとか何とかだった気がするが、まあ、それどころじゃないな。本物だったら一大事だ」

 酒屋の主人はそう言うと、何やら住所の書かれたメモをルナに渡した。

「そこには魔術師が住んでいる。気難しい奴だが、相談に乗ってくれるかもしれない」

「ありがとうございます、助かります」

「いや、一応は俺にも関わりある事だしな。無事を祈ってるよ」

 酒屋の扉を後ろ手で閉め、ルナは深くため息をついた。
 話は繋がってきているが予想以上に複雑になってきている。

「ともかく教えられた場所に向かってみましょう。きっと、時間もあまり残っていません……」

 自然と早足になるものの、それでも頭だけは冷静になるよう努めた。
 しかし焦ってばかりもいられない。
 メモに記されていた場所へと向かう内に、だんだんとアンダーグラウンドな場所に踏み込んでいる状況で冷静さを失ってしまえば手がかりどころか下手したら命さえ失いかねないのだから。

「う……、」

 その通りに入って最初に気づいた事は、異臭であった。
 天蓋の街アンレインでここまで強烈な臭いを感じた事はない。

(ゴミが散乱している?)

 有機物の腐る酸っぱい臭いに顔をしかめながら目的の魔術師を探す。
 貰ったメモには大雑把な位置しか書かれていないため、ここからは足で探す必要がある。
 しかし、

「……あー、ろくなモンないな……ちくしょー」

 それらしい人物は今まさにそのゴミを漁っているところだった。
 無造作に伸ばした赤い髪が特徴的な女性であるが、薄汚れた格好がやたらと目に付く。
 とはいえ他に人影は見当たらず、意を決したルナは咳払いして、

「……失礼」

「はぁ? あんた誰?」

「表通りの酒屋のご主人に、この辺りに魔術師の方がお住まいと聞いて来た者ですが……」

 赤髪の女性はあからさまに面倒事が向かってきたと言わんばかりのため息をつくと、

「で、この超絶美貌の持ち主かつ超優秀魔術師の私に何かあるわけ?」

「精神に作用する魔法の相談を」

「はぁー? そんなだっさい事させるつもりなの?」

「……、」

「はぁー、精神の魔法とかほんとだっさ。まぁーでもしゃーないか。酒屋のおっさんの紹介じゃねぇ」

 ぼりぼりと頭を掻いて、魔術師は不意に手を出した。

「で、報酬は持ってきてるんでしょうね?」

「……いくら必要なのですか?」

「はぁー? 金なわけないじゃん。あんたほんとに酒屋のおっさんからの紹介なわけ?」

「ええ!?」

「む、怪しい。騙ってんじゃないでしょうねあんた」

「いえ、そんな事は……ただ力を貸してくれるかもしれないと言われて――」

「とにかく。本気で頼む気があるならさ、さっさと報酬持ってきてよね。分からないなら酒屋のおっさんに聞いて来てよ。そうすりゃ信じてあげるし」

「……分かりましたよっ!」

 語気が荒くなるのも厭わずに、ルナは踵を返した。
 確かに突然現れて協力しろと言われたら報酬のひとつでも要求するのは自然だし、その身の証を立てさせるのも良識の範囲内だろう。
 しかし、時間がない焦りがルナを苛立たせている。
 足早だった往路と違い、今度は駆け足での復路だった。

「え? 報酬? あ……、すっかり忘れてた。あいつは先払いだったか。……しかし、大丈夫か?」

 ルナはこくこくと頷く。
 さすがに息が切れてしまったルナは必要最低限の単語しか言葉に出せなかったが、何とか伝わったようだ。
 今はとにかく呼吸を整える事に集中したかった。

「あいつへの報酬はいつも酒だよ。酩酊してると上手くいくらしい……ええっと、いつもの酒は何だったかな」

 そう独りごちながら、酒屋の主人は棚から幾つかの酒瓶をカウンターに置いた。
 どうにもうろ覚えらしく、首を傾げながら手に取っている様子であり、とても信用ならない。
 ここで間違えてしまえばまた大幅な時間をロスする羽目になる。
 ルナとしては絶対に間違えたくない選択だ。

「確か、アルコール度数は高いほうが好みだったような」

「………………」

 おそらく、その情報は本物なのだろう。
 いつもの報酬が酒だとしたら相当な酒好きかつ酒豪、という事になると予想できるからだ。

 その言葉をヒントにカウンターの上の酒瓶、そして念のために棚のラベルを全て見回す。
 どうやら酒屋の主人の記憶はそう間違っていなかったのかもしれない。
 カウンターに置かれた深緑色の液体が目を引く酒瓶を手に取る。

「お、そいつにするかい。まいど!」

 提示された金額を支払い、ルナは酒瓶を握って店を出た。
 普段は敬虔なシスターさんを装っているルナはこう見えてもアルコールには強いほうである。
 アンレインに流通する酒の種類もこの街に訪れる前にリサーチ済みだ。
 その中でも突出して高いアルコール度数を誇るのがこの【深緑の酒】だった。

「そうそう、これこれ! うひゃー、今日もいい夢みれそ!」

 酒瓶を差し出した瞬間、魔術師はひったくるようにそれを受け取った。
 まるで我が子のように抱きしめ、口付けまでする始末である。
 再びの全力疾走で呼吸が荒く、おまけに臭いのせいもあってちょっと戻しそうなルナにはツッコむ気力すらない。

「で? 精神系の魔法だっけ、どんなのを貰っちゃったわけ?」

 なんとか呼吸を整えたルナが説明すると、魔術師は「うへー」と顔を歪めた。

「そいつはお気の毒。内部からじわじわ変化させられてんだよ、それ」

「対処方法は?」

「相手が『中』に居る以上、こっちも『中』に乗り込むしかなくね?」

「……中に?」

 ルナは『魔術的に可能なのか』と聞いたつもりだったが、魔術師はそうは受け取らなかったようだ。
 少しだけむっとした様子で、自信満々に胸を張った。

「あたしは空前絶後の大魔術師よ? このくらいちょちょいのちょい」

 そう言って、魔術師は報酬の酒瓶の栓を抜いて直接口をつけて中身をがぶ飲みする。
 相当の酒好きだとは予想していたが、まさかストレートでいくとは思わなかった。

「はははー、実は私の専門も精神系なのよ。だっさいでしょー? 結構教会からも目ぇつけられちゃってさ。ま、とりあえずこれ持ってきなよ」

 魔術師が手渡してきたのは美しい輝きを放つ宝石だった。

「夢っつーのはとっても隙の多いモンだから、その『中』に居る奴も夢を悪用してると思うんだよね。それは対象の夢に入り込む魔具アーティファクトよん」

 ルナにとっては宝石の形をした魔具というのは何度も見てきたものだ。
 今更驚きはしないが、それでも魔術師の付け加えた「夢魔ごっことか出来るかと思って作ったモンだけどね」という言葉にはさすがに胡散臭いと感じずにはいられなかった。

「そいつを使ってお連れさんの夢に入り込みな。きっとそこに奴がいるよ」

「あ、ありがとうござ――」

「――ただし。気をつけないと、あんたもお連れさんも魔術師に取り込まれかねないからね?」

「……はい」

「ま、せいぜいがんばんな」

 役目は終えたとばかりに、魔術師は酒瓶を呷りながら去っていった。
 その背が見えなくなってから、ルナは宝石の魔具を握り締めて小さくため息をつく。

「……これで、ようやく突破口が開けましたね」

 だからといって無計画に突入するほど馬鹿ではない。
 相手が用心深く狡猾な魔術師の典型と分かった以上、準備を怠っては二人とも助からないだろう。

 そしてコヨーテはもう動けないほどに消耗している可能性が高い。
 であれば攻撃手段のないルナが向かったところで何の役にも立たずじまいだ。

「――対策を講じなければ」

 限られた時間の中で、ルナは『戦う術』を探して街に繰り出していく。


To Be Continued...  Next→

『ガラス瓶の向こう』(1/3) 

「………………」

 さざなみに似た音が聞こえる。
 寄せては引き、引いては寄せる。
 まるで、一度手から離れた物は二度と取り戻せないと告げるように。

(何も、見えない……)

 ルナは不思議な浮遊感に身を委ねていた。
 暗く、冷たい空間に一人きり。

 そういえば、誰かが一緒にいたような気がする。
 その誰かを探すべく身体を動かそうとしたが、それも無駄な事だった。

(動かない……!?)

 じわりと押し寄せる恐怖に声を出そうとしても、蝶の羽音すらも声が上がらない。
 身の自由を奪われたその事実がルナの心を凍えさせる。

(どうして……、)

 未知の感覚に押しつぶされそうになる。

(――誰か……!)

 助けを求めるように、声にならない声を上げる。
 身体が動かなくても声が出なくてもルナは抗い、もがき続けた。

「ルナ――!」

 引いて寄せる音の向こう。
 確かにルナを呼ぶ強い声が聞こえてきた。

「……、」

 この時になってようやく、ルナは自分が目を瞑っている事に気がついた。
 強い光を感じて、ゆっくりと瞳を開く。
 朝日の柔らかな光であっても、寝起きであれば眩しく感じるものだ。

「ようやくお目覚めか」

 見知らぬ天井から声のするほうに視線を移すと、そこにはよく見知った顔がこちらを見下ろしていた。
 黒を基調としたコートを着込んだ、くすんだ銀髪と真っ赤な瞳の少年。

「……コヨーテ」

「依頼から帰ってすぐに寝てしまうなんて、よっぽど疲れていたみたいだな」

「……、依頼?」

 そういえば二人で依頼を受けていたはずだったが、どういうわけかすぐにはそれが思い出せなかった。
 眉をひそめるルナの前で、コヨーテは今までに見せた事のないような笑顔で、

「本当に、良かった」

 そう小さく呟き、身を翻す。

「オレは帰りの馬車を見てくる。君はのんびりしているといい」

 ルナが口を開く前に、コヨーテは扉の向こうへと姿を消した。
 やけに素早い行動であったが、ルナはそれを不審がるよりも先に重大な問題に気がつく。

「依頼……?」

 記憶が欠落している。
 まずここがどこであるか、眠りにつく前に何をやっていたのか、それすらもぼんやりとした靄がかかったように思い出せなくなっていた。

「そう、そうです……確か、私とコヨーテは依頼を請けて、それで……」

 記憶を遡っていくのではなく、空いた記憶の向こう岸から辿っていく事にした。
 数日前、『大いなる日輪亭』にて妖魔退治の依頼を引き受けたのだ。
 手の空いている冒険者がコヨーテとルナの二人しかいなかったものの、得た情報を鑑みて二人でも十分だと判断した。

 リューンから馬車で移動し、この街――天蓋都市アンレイン――へ到着した。
 アンレインで拠点としたのは『水面の木葉亭』という小さな宿である。
 そして、ここは借りた部屋だというのは思い出せた。

 だと、いうのに。

「だめ、思い出せない……」

 この街に来てからの記憶が曖昧になっている。
 そんなに疲れているのだろうか。
 だとしても、こんな状況で二度寝できるほどルナもずぼらではない。

 寝台から身を起こすと、手早く白い上着に袖を通し、白いリボンで髪を纏め、コヨーテと揃いのルビーのイヤリングを右耳に着ける。
 身支度に余計な時間をかける事は、もはやベテランの領域に身を置きつつあるルナには有り得ない。
 『大いなる日輪亭』と違って軋まない階段を下りて食堂へと出ると、料理人兼店主の女性がルナを見てにっこりと笑った。

「おやおや、今起きたのかい」

 ルナは丁寧に挨拶を返しつつ、店内を見渡した。
 記憶が曖昧である以上、わずかにでも情報を集めるための行動だったが、店主はそうは受け取らなかった様子で、

なら門まで馬車を見に行くって言ってたけど、この様子じゃねぇ……」

「ぶふっ!? ……コホン、何かあったのですか?」

 前半が思い切り崩れたのはもちろん『彼』という言葉に過剰に反応してしまった故である。
 店主はその様子をやれやれと眺めて、

「いや、まぁ、ね……行ってみたほうが納得してもらえると思うよ」

 そう言って店主は宿の出入り口を顎で示した。
 日が昇りきっているとはいえ、まだまだ仕事が残っているのだろう。
 冒険者になって一時期を宿屋で働いて過ごしていたルナは弁えて、足早に宿を出て門へと向かう。

 門から近い宿を取っていただけあって、そこへはすぐに辿り着けた。
 そこに黒いコートの少年を見つけ、名を呼んで傍まで駆け寄る。
 こちらに気づいて振り返ったコヨーテはいつも通りの静かな表情を浮かべている。

「ああ、もう来たのか。ゆっくりしていて良かったのに」

「いえ、そんな事より、これは……」

 ルナが指差した門の向こうは乳白色の霧が立ち込めていて何も見えない。
 まるで何も描かれていないカンバスのように真っ白だ。

「どうにも、霧がいつになく深く出てしまって馬車が出せないそうだ」

「霧が……」

 アンレインと外部とを分かつこの門の正式名称は『霧断ちの門』というらしい。
 それを鑑みれば、この街の近くはこういった霧が出る事は珍しくないのだろう。
 何にせよ、これでは帰れない。

「霧が晴れるのを待つしかありませんね」

 コヨーテは「そうだな」と相槌を打ってから、

「……辛くなるだけなのにな」

 そう笑って、ルナの肩を叩いた。
 長い前髪が邪魔でその表情は見えなかったが、彼は本当に笑っていたのだろうか。

「宿に戻ろう。一人で歩けるか?」

「う、うん……」

 思わず、返事を詰まらせてしまった。
 ルナの心臓が激しく鼓動する。

 ――様子が変だ。

 何か大変な事が起きている。
 そう感じてはいたが穏やかなコヨーテの顔を見ると何も言い出せなかった。



 時間が空いてしまった。
 件の濃霧はちょっとやそっとでは晴れないだろう。
 その間、どうにかして時間を潰す必要がある。
 結局、見知らぬ土地での時間潰しといえば観光ぐらいしかない。

 が、

「少し疲れたから、オレは部屋で休んでいるよ」

 ルナが眠っている間に何をしたのかは知る由もないが、まだ昼前である。
 門から宿までの移動で疲れて休むというのは、やはりいつものコヨーテらしくない。
 しかし、だからといって追求したり無理やり付き合わせる事はできない。
 そんなものは水掛け論にしかならないのだ。

「いってらっしゃい」

 コヨーテの笑顔に、どこか不安定さが見え隠れしている。
 門で気づいてからずっと、こういう小さな違和感をいくつも覚える。
 これも、結局はそう感じただけに過ぎない。

「……行ってきます」

 こうまで気乗りしない観光というのも珍しい気がする。
 濃霧の影響で無理やりに暇を潰しているのだから仕方がないのかもしれないが。
 特にやりたい事もなく、人の流れに乗るようにしてアンレインの中央広場までやって来た。

「……、」

 欠けた記憶。
 様子のおかしいコヨーテ。
 拭えない暗い不安。

 ――何かが、壊れそうになっている。

 漠然とした、しかし信頼できる、自分の冒険者としての勘。
 このままでは取り返しがつかない事になる、という確信めいた焦り。
 観光なんてしている場合ではない。
 何かが始まる前に――否、何かが終わってしまう前に――動かなければ。

 ルナは拳を強く握り締めた。
 再び記憶を辿り、まるで霧を払うように欠落した部分を探っていく。
 そうしている内にまるで何かに導かれるようにルナの足は動き、一軒の屋敷へと辿り着いた。

 この家の前に立った瞬間、ここを二人で訪ねたという記憶が鮮明に蘇る。


「――墓場に巣食うアラクネ、ですか?」

 豪奢な応接室だった。
 『大いなる日輪亭』では触れる事すらなかったほどに柔らかな感触を返してくるソファに、コヨーテとルナは座っている。
 その向かいにはひと目でこの屋敷の主と判別できるほどに立派な装いの男女が座っており、依頼の内容を反芻したルナの言葉に眉根を寄せて反応したのは女性のほうだった。

「人の上半身に蜘蛛の身体――噂には聞いておりましたが恐ろしい化け物ですわ」

「退治の依頼、という事で間違いありませんか」

「ええ、あんなものさっさとこの街から消してしまわなければ」

 依頼人の女性は未だに眉根を寄せたまま、次第に語気が強くなっていく。
 そんな興奮気味の女性を宥めたのは、隣の物腰柔らかそうな男性だった。
 彼らは夫婦なのだそうだが、初見の感想は良くも悪くも正反対の二人、であった。

「まあまあ、落ち着いて。そんなに興奮すると身体に悪いよ」

「もともと余所者である貴方には分からないでしょうけど。この街の素晴らしさを汚すような存在なんて即刻消してしまわなければいけないのよ」

 フン、と鼻を鳴らす奥さんと、苦笑いを浮かべる旦那さん。
 見事なまでに尻に敷かれている様子だった。

「ああっ! 自警団があんなに役立たずだったなんて……早急に改革を申し入れなければ!」

 苛立ちが最高潮にまで達した奥さんは、金切り声で喚く。
 こうも情緒不安定に喚かれては会話も何もあったものじゃない。
 気まずい沈黙が落ちる。

「……あの、」

「まだ何か?」

 じろり、と射殺すような鋭い視線をぶつけられてルナは息を呑んだ。
 完全に出鼻をくじかれてしまい、続く言葉が出てこない。
 そんな様子を見かねたのか、旦那さんのほうから助け舟が出される。

「君、報酬の話がまだだよ」

「ああ、そうね、そんな話もしなければならないのね。これだから冒険者は……」

 不機嫌な表情で奥さんは呆れたようにため息をつく。
 その言動にさすがのルナも眉を平坦にせざるを得ない。
 それを察したのか、隣にいるコヨーテの手がそっとルナの手に触れた。

「……、」

 抑えろ、という事だろうか。
 そんなに腹を立てたつもりもなかったが、コヨーテの手が触れているというだけでそれどころではなくなる。
 少し、顔が熱かった。

「報酬は完全成功のみ。つまり討伐できた場合のみ銀貨一〇〇〇枚を支払うわ」

「十分です」

「じゃ、さっさと行ってきて頂戴!」

 再び騒がれてはたまらないと、半ば追い出されるように二人は屋敷を後にした。

「……あの態度はあんまりですね。旦那さんも大変そうです」

「アンレインが資産家の街だとは聞いていたが、想像以上の高慢さだったな」

 半ば独り言のような言葉に、コヨーテが苦笑混じりに返してきた。
 決して良いとは言えない依頼人に当たった事を笑い話にできないようでは冒険者なんてやっていられない。
 ルナは先ほどの苛立ちを恥じた。

「……場所は墓場でしたね。準備はいいですか?」

「ああ、手早く終わらせてしまおう――」


 確か、そんな会話だったはずだ。
 しかしその先がどうしても思い出せない。
 何か少しでも情報が得られればと、ルナは依頼人の屋敷のベルを鳴らす。
 ドアを開いて顔を出したのは、記憶にもあった依頼人の男性だ。

「ああ、君は……」

「突然お伺いして申し訳ありません」

「いやいや、なかなか取りに来ないんで心配していたところだったんだ。ちょっと待ってて」

 そう言うと、男性は踵を返したと思うと、すぐに戻ってきてルナに銀貨の詰まった袋を差し出した。

「……これは?」

「報酬だよ。取りに来ないからどうしようと思っていたところだったんだ」

「……、」

「そういえば、大怪我したって聞いたんだけど大丈夫だったのかい?」

「!? 怪我を……、私が?」

「ああ、噂になってたけど……?」

 報酬の受け取りを忘れてしまうなんてどうかしている。
 一緒に依頼を請けていたコヨーテも忘れていたのだとすれば、やはり何かがあったのだ。
 だが、ルナの怪我がコヨーテにどんな影響をもたらしたというのか。

「……すみません、ちょっと記憶が曖昧で」

「そうか……それはきっと大変だったんだろうね。君のお連れさんにもお疲れ様と伝えてください」

「はい、ありがとうございます……」

 依頼人の屋敷を後にしたルナは、さらに深まってしまった謎に思わずため息をついた。
 怪我をしたと言われても、ルナの身体には痛みはないしそれらしい傷もない。

 だが、別の収穫はあった。
 怪我が噂になったという事は、アラクネとの戦いで尋常でない何かが起こったという事だ。

 ルナの足は件の戦いのあった墓場へと向いていた。
 依頼人の屋敷から墓場まではそう遠くない。

「……っ、」

 足を踏み入れてすぐに分かる。
 ここで確かに戦闘があったのだと物語るような、濃密な血の臭い。
 戦いから幾日か経っているはずなのに、未だに不快なそれが色濃く残っている。

「……おまえ。ぶじ、だったんだな」

 のそり、と木陰から姿を現したのは犬頭の獣人だった。
 反射的に身構えようとするのを何とか押しとどめる。
 この獣人は、敵ではない。

「あっ……」

 まるで稲妻が走ったように、ルナの記憶が光を発した。
 一筋の閃光がもやを振り払うように、墓場での出来事を鮮明に思い出させる。


「――街の中と違って質素な墓場だな」

「大方、ここまでお金が回らないのでしょう。あるいは、死後には興味がないのかもしれません」

「かも、な……ん?」

 湿った土を踏みしめる音がかすかに聞こえ、コヨーテは足を止める。
 音のした方向へ振り向いてみれば、犬頭の獣人がこちらへと歩み寄ってきていた。

「……おまえたち。ここ、きけん」

「妖魔、か?」

「ちがう。おれ、はかもり。ここの、かんりにん」

 墓守。
 コヨーテらとて人の姿を取らない存在と関わった事は両手の指じゃ収まらない。
 世界のどこかには犬頭の獣人が墓の管理を任される事だってあるかもしれない。
 あまり深く考えないほうがよさそうだ。

「私たちはアラクネ退治を任された者です」

「……ん、ぼうけんしゃ。ありがたい。たすかる」

 獣人の墓守はわずかにも表情を変えずに――そう見えているだけで実は変化しているのかもしれないが――墓場の奥を向いて、

「あいつ、このおく。ねてる。ひるま。でも、すぐきづく。よれない。ぼうけんしゃ。つよいか」

「ええ、すっごく」

 ね、とコヨーテのほうへ笑顔を向けるルナ。
 少しだけ驚いたような表情を作ったコヨーテは、すぐにそっぽを向いて鼻の頭を掻く。
 気恥ずかしいだとか、照れるだとか、そんな時にする彼の癖だった。

「……勝算がなければこんなところまで来たりはしないさ。忠告、感謝する」

「ん。きをつけろ。おまえたち、おれ、うめたくない」

 獣人の墓守は二人に会釈をしてその場を立ち去った。
 その背を見送って、コヨーテは銀の髪を纏めている『真紅のリボン』から【レーヴァティン】を具現化する。

「行こう」

 コヨーテは【レーヴァティン】を片手で担ぎ、墓場の奥を睨めつける。
 墓場の湿っぽい雰囲気を演出するような生ぬるい風が木々を揺らす中、コヨーテとルナは粛々と歩き続ける。

 やがて空も曇り始め重苦しさを増す墓場の最奥に、『それ』はいた。
 くすみきった緑と灰色がかった墓場に似つかわしい、灰みがかった白。
 そして、あまりにも禍々しく無機質だ。

 陰鬱な墓場の木々の下。
 そこに鎮座している大蜘蛛は静かに、まるで死んでいるかのように生命を感じさせない。
 しかし、ルナは気づく。

 その硬質な腹部から生える女を模した頭部、その瞳はしっかりとこちらを見つめている事に。

「こいつは……!」

 コヨーテが声を荒げるのも無理はない。
 『それ』が纏う、ねっとりとした悪意。

 アラクネ。
 旧き物語に伝えられる神の怒りを受けた美女。
 その名を冠する魔物としては、『それ』はあまりにも禍々しすぎた。

「くっ……!」

 自然と表情が険しくなる。
 こんなモノが、なぜこの街に。

 しゃきん、しゃきん、と。
 アラクネの八本脚が擦りあう度に硬質な刃物じみた音が響く。
 まるで威嚇か、あるいは舌なめずりのような嫌な音だ。

「ルナ、援護頼む」

 厄介そうな相手だと愚痴をこぼす間もなく、コヨーテは【レーヴァティン】を構えて走り出した。



(――そう、確かに戦った)

 死闘と言って差し支えないほどに激しい戦いだった、はずだ。
 コヨーテもアラクネも目にも留まらないほどの素早さで剣戟を交わしていたのだから、素人のルナでは状況を把握するのが難しかった。
 数十合打ち合った末、コヨーテはアラクネの脚を数本斬り飛ばし、黒翼で威力を底上げした【既殺の剣】で外殻に穿ったわずかな穴から黒狼を撃ち込み、柔らかい内側から食い破らせていた。
 どす黒い血が噴水のように吹き出て周囲を赤黒く染めた光景は思い出した事を後悔するほどだ。 

 しかし、それでも大怪我と表現するほどの怪我を負った覚えはない。

「だいじょうぶか」

「え、ええ。大丈夫、です……」

「しんぱい、してた。おまえ。ぐったり。あせる」

「私が怪我をしたのは間違いないのですか」

 獣人の墓守は不思議そうに首を傾げた後、確かに頷いた。

「ん。でも、よかった。おまえ、げんきそう。うれしい」

「……、」

 だとすれば、どうして今は傷がないのだろうか。
 半吸血鬼のコヨーテならともかく、ルナは取り立てて際立つところのないひ弱な人間である。
 自力での治癒は望めなかっただろう。

(だとすれば、きっとコヨーテが……)

 助けてくれたのだろう。

(――でも、どうやって?)

 嫌な予感がした。
 コヨーテは誰かのために身を削る人だ。
 もしかしたら、また五月祭や聖堂襲撃事件の時のように無茶をしたのかもしれない。

 獣人の墓守に別れを告げると、ルナは細い路地を歩きながら右の耳に触れた。
 正確には右耳にのみ飾られたルビーのイヤリング。
 『空間を超える魔法』をかけられた品であり、もう片方のイヤリングと声を繋げる事ができる。
 イヤリングの片割れは、コヨーテの左耳にある。
 七月七日、コヨーテの誕生日に巻き込まれた聖堂襲撃事件でその効力は実証済みだ。

「コ、コヨーテ……聞こえますか?」

 何も知らない周囲から見れば独り言に見えているだろう。
 その為に細い路地を選んだのだが、やはり少し気恥ずかしい。

「……コヨーテ?」

 返事がない。
 そういえば疲れたから休むと言っていたはずだ。
 となればイヤリングは左耳から外されているだろう。

(……直接聞いたほうがいいですね)

 細い路地から大通りに出て、ルナはまっすぐに宿へと戻る。
 あちこち歩いた割にはそう時間は経っていなかったが、正午過ぎということもあってやたらと人が多かった。
 忙しそうに店内を駆け回る店主の姿を横目に、ルナは階段を昇っていく。

「コヨーテ……、眠っていますか?」

 部屋に入ると、ベッドで横になっているコヨーテの姿があった。
 その声に反応するように、コヨーテは目を開いてその身を起こす。

「……え?」

 ルナは身を強張らせる。
 今朝別れる前のコヨーテとは更に違った様子だった。
 ゆらり、と立ち上がった彼の瞳は虚ろなままに、無遠慮にルナに接近する。

「コヨーテ!? 痛っ……!」

 咄嗟に避けようとするルナの細腕をコヨーテの腕が掴む。
 思いがけず、強い力で。

「うあっ……!?」

 予想外の行動に驚愕したルナは足を縺れさせ、近くにイスに引っ掛けて倒れこんだ。
 まるでそれを利用するように、コヨーテはルナの上に乗っかかり、今度はその両腕でルナの首を掴む。
 掴むどころじゃない、まるで押し潰すような遠慮の欠片もない力で絞められている。

「――っあ、やめ、……て……!」

 見慣れた手が。
 共に戦ってきた手が。
 何度となく触れてきた手が。

 今、首にかけられている。

(彼、は――!)

 コヨーテではない。
 コヨーテであっていいはずがない。
 その直感が、ルナの頭を冷やした。
 
「……っ!!」

 ただでさえ半吸血鬼の力を持つコヨーテだ。
 ルナの細い首なんていつ捻じ折れるか分からない。
 だからこそ、行動は迅速に的確にしなければ。

(振りほどかないと……!)

 死ぬわけにはいかない。
 生きなければ、他でもないコヨーテに人を殺させる事になる。
 それだけは阻止しなければならない。
 例えコヨーテにとって非道な事をしようとも。

「っ……!?」

 彼の腕には、ルナが常に携帯している十字架が触れている。
 ただそれだけで半吸血鬼であるコヨーテにとっては火傷するほどの苦痛らしい。
 コヨーテがコートを着ていなかった事も幸いした。
 もし素肌を晒していなければ、十字架を彼の腕に突き立てなければならなかったのだから。

 力が緩んだ隙を突いて、ルナは身をよじって脱出を図る。
 するりと抜け出したルナは、転がった勢いそのままに壁に背中を打ち付けて止まった。
 首を絞められて呼吸もままならない状態で背中を打ったため呼吸が止まるかと思ったが、どうにか持ちこたえられたのは幸いだった。
 激しく咳き込み、荒い呼吸を繰り返して酸素を求める。

「ルナ……オレ、は……」

 ちかちかと瞬く目の前には呆然と座りこむコヨーテの姿があった。
 先ほどとは違って瞳には理性の色を宿し、しかし青ざめて震えている。
 思いのほか簡単に拘束から逃れられたのは彼が理性を取り戻したからだったのかもしれない。

「コヨーテ……」

「――すまない」

 待って、という声すら出なかった。
 ただ唖然とするルナの脇を通り抜けて、コヨーテは扉から外へ走り去っていく。

 首も背中も痛いし苦しいが弱音を吐いてはいられない。
 コヨーテが謝ったという事は、すなわち自分の犯した罪を認めているという事だ。
 彼にとって人間を傷つけるという事の重大さは、ルナは痛いほど知っている。

(見失った……)

 何とか呼吸を整えて急いで跡を追ったものの、宿の周辺にコヨーテの姿は見当たらなかった。
 ともかく、彼を探し出さなければならない。
 何があったのか問いただすためよりも、彼の精神状態のほうが心配だった。

 脳が酸素を求めている中で、ルナは必死に思考を走らせる。
 コヨーテもルナと同じくこの街には来たばかりで、衝動的に駆け出したのだとしても無闇に地理に明るくない場所へは向かわないはずだ。
 二人で立ち寄った場所のどこか、あるいはルナが眠っている間にコヨーテが訪れたであろう場所のどこかだ。

(……と、なれば)

 呼吸を整える暇もなく、ルナは駆け出す。
 人ごみを縫うように走りに走って、たどり着いた目的地にはコヨーテの後姿があった。
 コヨーテは門の傍の詰め所に立つ門番となにやら話し込んでいる。
 声の大きい門番の話によれば、どうやらこの視界を覆う霧が晴れつつあるらしい。

「コヨーテ……」

「――っ!!」

 何故ここに、とでも言いたげにコヨーテは一瞬怯えたような表情を見せた。
 原因は分からないが、コヨーテがルナを傷つけた事実は彼の心を抉ったに違いない。
 となれば次に彼が考えるのは、どうやってルナと距離を取るかに尽きる。
 もし霧が晴れていれば馬車は出るし、もしかしたらそのまま街の外へ、という展開もあったかもしれない。

「あの、何がどうなっているんですか? 私が怪我をしたとか、それが治っているとか、コヨーテの事とか……」

 コヨーテは押し黙ったままだ。
 その視線はルナから逸らされている。

「教えてもらえませんか?」

「……、ルナ」

 長い沈黙の後、コヨーテは目を閉じた。

「何も聞かずに、一人で馬車に乗って『大いなる日輪亭』に帰ってくれないか?」

「――え?」

「頼む……」

 半ばまで予想はしていたはずの言葉だったが、それでもルナは衝撃を受けた。
 疑惑が確信に変わる瞬間である。

「冗談ではありません!」

 コヨーテは何かの事件に巻き込まれたか、あるいは関わっている。
 そのきっかけはおそらくルナが怪我を負って倒れた件と関係しているはずだ。
 先ほど並べた疑問について、何一つ回答がなかった事がそれらを裏付けている。

「辛そうなコヨーテを置いて、何も分からないままでこの街を去るなんて、出来るわけがないでしょう!!」

 気がつけばルナの視界がぼんやりと滲んでいた。
 自分の存在が、またコヨーテを追い詰めていたのだ。
 傷ついてほしくない、苦しんでほしくないと思っているのに結果が伴わない、それが何よりも悔しかった。

「私たち、仲間でしょう……? 違うのですか?」

「………………」

 コヨーテは目を丸くしてルナを見つめた。
 そして不意に表情を崩して、

「そう、だよな……簡単に納得するようなルナじゃないよな」

 少し嬉しそうに目を細めた。
 しかしそれも束の間で、次の瞬きの後には苦しそうに顔を歪める。

「だ、大丈夫ですか?」

「大丈夫、とは言えないな……宿に戻るよ」

 踵を返すコヨーテに、ルナはその袖を掴んで引き止める。

「結局……教えてはもらえないのですね」

「あまりルナに心配ばかりかけられないからな」

 袖を掴むルナの手を優しく解くと、コヨーテは不安げな足取りで帰路についた。
 彼の後姿を眺めるルナは、滲んでいた涙を乱暴に拭い、頬を強く叩く。
 その音で通行人が何事かとこちらへ好奇の視線を向けるが気にしない。

「……ひどいですね。余計心配させるような事を言って、その自覚もないのですから」

 いつもいつも誰かのため、誰かを守るために動いて、ボロボロに傷ついて、見返りなんてなくっても、理解されなくても、それでも笑っている。
 そんなものは多少彼を知っている者なら誰だって知っている事であり、騒ぎ立てるような事じゃない。
 しかし、自分の与り知らないところで自分のために傷つき苦しむというのなら話は違う。

「コヨーテが教えてくれない以上、自分で何とかするしかありませんね」

 もうコヨーテだけに辛い思いはさせたくない。
 コヨーテが彼以外の誰かを守るのなら、誰かが彼を守ってあげなくてはならない。
 それをできるのがルナでないとしても、やらなければ可能性はゼロのままだ。


To Be Continued...  Next→

『迷宮のアポクリファ』(4/4) 

 『嵐の間』と『暁の間』の絵画はすっかり本来の色合いを取り戻した。
 このまま残りの塔にも向かうべく『月歌を紡ぐ者たち』は歩を進める。

 道中、ヒトの身体に魔物の顔を持ち、天使のごとき翼を有した異形の生き物に襲われながらも、すべてを空中回廊から叩き落として踏破した。
 あれらも元々は普通の人間だったのだろう。
 しかし魔神の引いた筋書き通りに肉体を捨てさせられ、天使をおぞましく真似たかのような魔物にさせられたのだとすれば、ただひたすら『月歌を紡ぐ者たち』の逆鱗に触れただけだった。

「……これで良しっと」

 『静謐の間』に掛けられた星空を描いた絵は、深い青と煌めく星の光に満たされた。
 それと同時に、遠くのほうで何か巨大な者が動くような音がした。
 『月歌を紡ぐ者たち』は円陣を組み、しばらく周囲を警戒したが、それきり音は聞こえなくなる。

「北東のほうだったな」

「役割を残した塔は『召喚の間』だけだからね。たぶんそこに橋が渡っているはずー」

 しかしその前に寄る場所がある。
 『虹の間』から繋がる空中回廊、正確には中ほどで崩落している箇所から飛び出して行き着く浮遊する岩場だった。

「さて、岩場に飛んでかなきゃならないんだけど……」

「先に言っておくけど、私は行かないわよ」

「……理由は?」

「私より背の低い男に抱きあげられるのが我慢ならないわ」

「お前何気ない風に言っているが結構傷つくからな?」

 コヨーテは割と真剣マジな風に言った。

「冗談はさておき、コヨーテが橋渡しするにしてもその間の戦力は完全に二分されるわよね。それほど強力じゃないものの面倒な魔物がたくさん溢れてるわけだし、この中じゃ私かコヨーテがいないと危険よ」

「だけど、門の先に踏み込むならチコは必要だよ。おそらくは最重要機密が眠る場所に二人で乗り込むってのも不安だなぁ」

「それならルナも連れてこーよ。アンデッドに強いし。重いだろうけど我慢してねコヨーテ」

「わっ、私そこまで重くありません! ですよねコヨーテ!」

「一般的な人間ならヒト二人も抱えればきついはずなんだが……まぁ、何とかするさ」

 こうして浮遊する岩場に向かうメンバーが決まった。
 コヨーテは自分の首に手を回させて、右腕でルナの脚を支えて不安定なお姫様抱っこのようにして抱きかかえる。
 そして小脇に抱えるように左手でチコを担いだ上で彼女の腰のベルトをしっかりと掴んだ。

「ちょー! ちょっとちょっとコヨーテ! 私の扱い悪くなーい!?」

「一人につき腕一本しか使えないんだから我慢してくれ」

「ずーるーいー! 私ももっかいお姫様抱っこがいいよー!!」

「あわわわわ、ちょっとチコ暴れないでください! 揺らさないでー!」

 そんなこんなでいつものようにぎゃあぎゃあとうるさい『月歌を紡ぐ者たち』であった。
 必要な荷物はすべて真紅のリボンへと格納し、コヨーテは翼をもって空中回廊から羽ばたいた。
 危なげない飛行を終え、三人は浮遊する岩場に着地し、改めてあの門と相対する。

「ほんじゃ行くよー、一応離れててねー」

 そう声をかけて、チコは件の強酸性の薬品を瓶ごと門へ投げつける。
 砕けた瓶から飛び散った魔法の酸は硬化魔法による防御をものともせず、瞬く間に鉄格子を溶かしていく。
 薬品の反応が見られなくなった頃には溶け切らなかった鉄格子もボロボロのグズグズとなっており、【レーヴァティン】の一撃で人が通れるほどの大きさの穴が開いた。

「……何か、いる」

 鉄格子の扉をくぐった先は石造りの通路が続いており、その奥は小さなホールとなっていた。
 その中央には一人の女性――青白く輝く身体と薄ぼんやりとした希薄な存在感から霊体と推測される――が佇んでいる。
 この迷宮で命を落とした人間なのか、魔術師が着るローブを更に古めかしくしたような衣装を身に纏っている。

『……私が愚かだった。ア……クリファを……御せると思っていた……代償が……こん……な……『そう、隷属の儀式を……やり直さねば……いや、だが……わたしの肉体は……喰われて……』

 亡霊に近づいてみても、彼女は何事かを呟き続けるばかりでまったく反応を見せなかった。
 それどころかこちらを認識していないかのように視線すら向けない。

『師の言葉通り……油断すべきではなかった……異界の魔神……相手取る、時は……』

「……完全にダメになっている感じがあるな」

「でもさ、独り言の内容はいかにも重要な何かを知ってる風だし、封印されてたのも相応の理由があるはずだよ。正気に戻せたら何か聞き出せるかも」

「どうやって?」

 問われて初めてチコは頭の中を『?』でいっぱいにした。
 冒険者の間では心が乱れている時は気付けに葡萄酒をというのが一般的だ。
 しかし肉体を持たない亡霊相手にどうやって酒を飲ませるというのか。

「……あっ! あれがありますよ。【歌う貝殻】! リボンの中に入っていませんか?」

「ああ。あれか」

 コヨーテはリボンの中から銀色の貝殻を取り出した。
 【歌う貝殻】と呼ばれるそれは、以前巻き込まれた水精事件の折りに楽師の水精から受け取った道具である。
 封じられているのは聴いた者の心を癒すという魔法の演奏だった。
 貝殻を開くと穏やかな調べが鳴りはじめ、竪琴の旋律がホールを包み込んだ。

『あ――ああ、ァ――』

 旋律の出処を辿るように、亡霊の視線がゆっくりと貝殻へ、それを持つルナ、そしてコヨーテたちへと焦点を結んだ。

『そなた……たちは……?』

「通りすがった冒険者だ。……あんた、大丈夫か?」

『わたし――、わたしは……召喚術師カナーリォ……この迷宮をつくりし……つくり……、し――う、うわあああぁぁぁ!!』

 問われた事で記憶を取り戻すきっかけとなったのか、カナーリォと名乗った亡霊は両手で頭を抱えて叫び出した。

『わ、わたしは喰われた! 魔、魔神! 異界の魔神に!!』

 錯乱して絶叫を続けるカナーリォの言葉は、『暁の間』に囚われていた老人の発言とも合致する。
 彼女こそが異界の魔神を呼び出した張本人であり、またこの『七塔の迷宮』の製作者である召喚術師カナーリォなのだ。

『甘言に耳を貸すべきではなかった! 魔神が偽りしか言わぬのは知っていたはずが――! 全部喰われた! 両の腕も、心の臓も、魔力すら――!!』

 段々とエスカレートしていくカナーリォの絶叫は留まるところを知らない。
 さっきとは別の意味で近寄りがたくなった亡霊に、冒険者たちは思わず一歩後ずさった。

『呪われろ! 異端書物の魔神! 永劫の闇に……還――!』

 恐怖に絶叫した亡霊はひと際大きく喚きたてると、そのまま消え去ってしまった。

「……異端書物の魔神」

「うん。きっとそれだよ。バリーは魔神に魅入られていたんだ」

 魔神が書物に細工したのではなく書物そのものが魔神であったとするならば、あるいはその痕跡を隠し果せるのかもしれない。
 何がバリーの琴線に触れたのかは分からない。
 だが魔神を呼び出した召喚術師カナーリォですら、その甘言に耳を傾けて身を滅ぼした。

「早く戻らないと」

「得るべき情報はすべて得たはずだ。急ごう」

 亡霊が消え去った後、ルナはそこに一振りの剣が残されているのを見つけた。
 カナーリォの遺品だろうか、やけに細身の剣は儀式用のそれに見える。
 さすがのチコも魔具には詳しくないらしく、しかし迷宮脱出に不必要とも断定できないため、コヨーテの真紅のリボンに収納して持ち歩く事にした。

 空中回廊に残ったミリアたちと合流したコヨーテは手早く情報を共有すると、すぐさま脱出への行動を開始した。
 チコの言葉に従い、絵画の仕掛けを解いた際に何かが起こったであろう『召喚の間』に向けて移動する。

「――これは」

 『召喚の間』に辿り着いたコヨーテたちは空を仰いだ。
 最も高い六番目の塔、その中ほどは大きく空に向かって開かれており、『召喚の間』の中央には天から降り注いだ青く輝く光の柱が突き立っていた。

「……ひょっとしてこれが七つ目の塔なんじゃないか?」

「え?」

「だって六つの塔の謎を解いて初めて現れる光の柱だろ?」

「なんかそれっぽい気がするわね。そもそも最初っから七つの塔が見えてたら謎も何もない気がするし」

「っていう事は……解釈を間違った?」

「そ、そっそそそそんなことー! ないんじゃーないかなー!? ほら、壊れた空中回廊とか浮遊する岩場とかあの辺のつじつま合わなくなっちゃうじゃんさーーー!?」

「まぁ、しかしチコの推論も全く外れているという訳でもなさそうだしな」

「そーだよ! 結果オーライだよ! 結果オーライだからもーいいじゃんこの話題は! ハイもーやめやめ!!」

 今回、チコに任されたのはバリーの代わりに迷宮の探索及び脱出の方法を探る事だ。
 当初の目的を鑑みれば、成果は限りなく満点に近い。
 むしろ付け焼刃ながらも迷宮の解析から脱出経路の確保まで成し得た功績は大きい。

「おらー、帰るぞ野郎どもー!!」

 などと叫びつつ、コヨーテの裾を引っ張ったままチコは光の柱に触れた。
 ぐわわわ、と何かが捻じ曲がるような音が響いたかと思うと、世界が暗転する。

「――うわっ!」

 暗転の直後、コヨーテたちは折り重なるように『大いなる日輪亭』の屋根裏部屋に叩き戻された。
 迷宮の入り口が一冊の本であり、あまりに狭すぎたためだろうか。
 真っ先に飛び出たチコが一番下となって潰れたカエル同然の声を上げた。

「お前ら一体どこから出てきやがった……?」

 ふと顔を上げれば、くたびれた風貌の男が一人、いつも以上に眉間に皴を寄せていた。

「おー、バリーおかえり。ねー聞いて聞いて、屋根裏から大冒険!」

「!? お前らまさか――!」

 正しくそのまさかな説明を各々から受け、バリーはこめかみを抑えて軽く呻いた。

「何をとんでもねぇ無茶してんだ」

「いつも止める役がいないんだから仕方ないだろ」

「……、」

「バリー、話がある。あの司祭は、――?」

 バリーはその呼びかけを遮った。

「悪ィが約束がある。出かけなくちゃならねぇ。お前らも一緒に来てくれ」

 テーブルの上に置かれたままの経典を手にして、バリーは背を向ける。
 屋根裏部屋を出る直前、彼は立ち止まり、それからぽつりと言った。

「コヨーテ」

「……?」

「もし、――もし俺が選ぶ道を間違えそうになったら止めてくれるか?」

「……止めないと思うのか?」

 そう言って、コヨーテは不機嫌な表情を露にした。
 対するバリーの表情は差し込む朝日と屋根裏の暗がりが作る陰影でよくわからない。
 いつの間にか夜は明け、新たな一日が始まっていた。

「――行くぜ」

 フルメンバーとなった『月歌を紡ぐ者たち』は屋根裏部屋を、『大いなる日輪亭』を飛び出した。
 向かう先はひとつ、治安隊の詰所である。



 治安隊の詰所に着いた『月歌を紡ぐ者たち』は早朝であるにも関わらず件の隊長に取り次がれた。

「おお、『月歌を紡ぐ者たち』か。実はあれから、囚人が協力的になってな……」

「……それよりも。もう一度あの司祭に会わせてもらいたい」

「何? また、だと……? どういうつもりだ」

 露骨に隊長の表情が変わる。
 その様子からもバリーが幾度となくここを訪れ、司祭との面会を求めたのだと読みとれた。

「見りゃわかる。通してくれ」

 バリーはというと一切気にせず、ずかずかと大股で牢獄へ向かう通路を歩いてゆく。
 隊長は怒声を上げ、その後を追う。
 自然とコヨーテたちもそれを追いかける形となった。

「待てバリー! これ以上の勝手はいくら協力者と言えど許さんぞ! ……ん!?」

 隊長の声を一切無視して、バリーは牢獄の扉を開け放つ。
 そう、本来は厳重に施錠されているはずの扉を、一切の小細工抜きで開け放ったのだ。

「なッ、なんだ……!? 何が起きている――!?」

 全員が驚愕し、黙り込んだ。
 牢を見張るべき牢番たちは皆、子供のように眠りこけて机に伏し、その場は異様な気配に満ちていた。
 例えるなら、肉食獣が獲物に襲い掛かる寸前の静寂のようである。

「……やっと、来て下さったのですね。お二人とも」

 静寂を打ち破ったのは、その場の雰囲気に合致しないほどに穏やかな少女の声。
 空色教団の司祭たる少女だった。

「今日はお返事を聞かせて頂けますか? 空色の教えに、真実に……興味がおありか、否か」

「バリー、聞くな。こいつの正体は――! ッ……!?」

 コヨーテは叫ぶも、その言葉は遮られた。
 ただ気配が迫ってきただけで、物理的な干渉が一切なくとも影響を及ぼした。
 これが魔神の成せる業なのか。

「――あァ、興味があるぜ。空色教団に、その真実の教えになァ」

「バ、リィィィ……ッ!!」

 呻くように声を絞り出すも、蚊の鳴くような声しか出てこない。
 横目で見る限り、他の仲間たちも同じく威圧されている様子だった。

「貴方がわたくしに答えて下されば、お約束しましょう。すべての願いを叶える、大いなる力を。しかるべき代償と引き換えに――!」

 司祭の、否、異端書物の魔神の誘う言葉に、バリーは静かに頷いた。
 バリーが一歩を踏み出す。

「――やめろッ!」

 コヨーテは重圧を跳ね除け、叫んだ。
 バリーと交わした言葉を、取るに足らない口約束として反故にするわけにはいかない。
 彼が選ぶ道を誤りそうになるのなら、それを止めてでも正すのがコヨーテの役目なのだから。

「バリー! そいつは魔神……異端書物の魔神なんだ!!」

「……コヨーテ」

 真実を伝えた。
 コヨーテの声は、確かにバリーに届いた。
 しかし、何も変わらない。
 バリーはただコヨーテの名を呟いただけで、大きな変化は何もなかった。

「さあ、バリー様。わたくしと契約を結び、我が主となられませ――!」

「……、」

「その願い叶えましょう。この『』の名において――!!」

 異端書物の魔神はついに叫んだ。
 勝ちを確信したのだろう。
 事実、バリーはもう一息で完全に魔神の支配下に置かれるような立場にあったのだから。

「ふっ……」

 しかし、

「ふふふ……はは、はっははははは!!」

 ここにきて、バリーは大声で笑いだした。
 まるですべてが計画通りであったのだとでも言いたげな、黒幕のような笑い方で。

「やっと名前を教えてくれたな? 『アポクリファ』、迷宮から逃れた魔神よ」

「……!」

 異端書物の魔神の表情にヒビが入った。
 いかなる場合にあっても冷静な少女の仮面が引きつりつつある。

「バリー……?」

「いいぞコヨーテ、迫真の演技だったぜ。魔神も騙された。さすがはカンタペルメで王子役を張っただけはある」

「い、いや演技じゃなくて……オレは本気で心配して――!」

 コヨーテの言葉を遮るように、バリーは再び魔神へと向き直る。

「――こいつが魔神なのは最初っから気づいてたが、『真名』だけがどうしても分からなかったんだよなァ。それさえ聞きだせりゃあこっちの魔法もとびきり有効に働くってモンだ」

「……。何、を……」

「ハッ、ひとつ冒険者の流儀を教えてやるよ、魔神。欲しいモンを早々に明かしちまうと足許を見られるぜ?」

「……お答えを、バリー。貴方は我と契約する心算がなかったと申されるか?」

「答えてやる。――全くない。最初っからな」

 ビキリ、と少女の表情が歪む。
 それは怒りの表情だ。

「……バリー様。魔神をここまで愚弄して、人の形を保っていられると思わぬことです」

 女司祭の身体は小刻みに震え、不気味な蠢動を始めている。
 ぞわぞわとどす黒い不穏な気配が牢獄からあふれ出さんとしていた。

「お前。全部知っていながら黙っていたのか?」

「あァ、お前が真実を知ると演技が出来ねぇ気がしてな……ッ!?」

 ドゴッ、と鈍い音が炸裂した。
 コヨーテが力いっぱい牢獄の石壁を殴りつけた音である。

「……バリー」

「お、おう」

「後で死ぬほど奢れ」

「ハイ」

 その間にも後方では治安隊隊長とルナたちが眠っていた牢番たちを必死に牢獄の外へと避難させていた。
 衛兵隊を集めるよう指示し、『月歌を紡ぐ者たち』は魔神と相対する。

『許しません! バリー! 迷宮に囚われ、未来永劫、我が慰みものとなりなさい!!』

 異端書物の魔神アポクリファとその周囲の空間が歪み、その姿を変えてゆく。
 アポクリファの両腕は禍々しさを備えた、黒く筋張った異形のものとなった。
 更にはその両の腕が一対、少女の両肩の辺りに漂っている。
 否、ただ漂っているわけではなく、彼女の意思に従って動かされていた。

「……さぁ、来いよアポクリファ!」

 バリーの啖呵に応えたわけではないのだろうが、アポクリファの本来の右手から魔力が迸り、次の瞬間には一条の雷となって放たれる。
 凄まじいスピードで飛来する雷槍は【レーヴァティン】の切っ先を伝い、コヨーテの手元が弾けた。

「ぐッ……!」

 危うく取り落としかけた【レーヴァティン】を握り直し、コヨーテは改めてアポクリファに向き直る。
 そうしている間にもアポクリファの四つの手はまるでピアノを弾くように忙しなく動いている。

「はぁっ!!」

 影から影へと飛び移る【飛影剣】の動きでアポクリファへ急接近したミリアは死角から双剣の一撃を繰り出す。
 ガィィィィン! と、凄まじい金属音が鳴り響き、ミリアの一撃はいつの間にかアポクリファの手元に現れた剣によって阻まれていた。
 その禍々しくも美しい魔力の輝きは魔剣のそれに等しい。

「何こいつ、詠唱なしで魔法使えるの!?」

「違うよミリア! こいつ、してる!」

「――指で印を結んでやがるんだ。独創性オリジナリティが強すぎて読めねぇが……不穏な動きをしていたら気を付けろ!」

 腕は四本、そして本体である魔神は本来の呪文詠唱による魔術の行使も可能だ。
 こうなっては数的有利は無いに等しい。
 火炎と雷撃が交互に繰り出される、悪夢のような連続攻撃が『月歌を紡ぐ者たち』を襲う。
 大雑把な破壊の嵐は冒険者を薙ぎ倒すにとどまらず、牢獄のあちこちを砕き、燃やし、吹き飛ばした。

「――とにかく接近しないと!」

 コヨーテとミリアは魔術による攻撃を捌きつつ、なおも不屈の闘志を燃やして接近を図る。
 再びアポクリファの右手が不気味に動き、何らかの魔術を起動した。
 両手から呼び出された幾本もの魔剣は無機質ながらも意志をもったような動きで二人に飛来する。

「アポカリプス!」

 コヨーテは『真紅のリボン』から【黙示録の剣】を取り出し、左手に構える。
 目には目を、歯には歯を、魔剣には魔剣が相応しい。
 撃ち出された魔剣をこれまた魔剣二刀流で弾いていく。

「行け、ミリア!」

 その隙をついてコヨーテの背後からミリアが飛び出していく。
 わずかな距離ではあるが、アポクリファの指が奏でる印も相当に速い。
 肩に漂う腕が一通りの印を結び終えた後、人差し指がまっすぐにミリアを指し示した。

『――ッ!!』

 と、同時にその指は根元から吹き飛んだ。
 行き場を失った魔力があらぬ方向へと弾け飛び、牢獄の天井に穴を開ける。
 指の動きが止まるその一瞬を後方から狙っていたチコの一矢が命中したのだ。

「はあああぁぁぁぁ!!」

 軽快なステップから繰り出される一撃と見紛う二撃、【湖面の一閃】がアポクリファの片腕を斬り飛ばした。
 指を欠いて動きが鈍った腕は、しかし血の一滴も出さずに壁にぶつかって瓦礫に埋もれていく。

「……義肢? まさか錬金術まで修めてやがんのか!?」

 本来の腕に加えてあれだけのパフォーマンスを成し得る代物をさらに二本も操るとなると、どれだけの技術を要するのか。
 その上この人数を相手取っても魔術の行使は一糸乱れない。
 魔神の一言では済ませられないほどの所業だった。

『む――?』

 しかし当の魔神アポクリファは少女の顔で眉を顰め、様子を確かめるように三本となった腕を動かしていた。

「ハッ、効果覿面てきめんって面だなァ?」

『……バリー』

「俺がこんな辛気臭ぇ牢獄に何度も足を運んだのはなァ、お前の力を封じ込める結界術式の準備するためだったんだよ。その様子じゃ全盛期の半分も出てねぇな? ざまぁ見やがれ」

『おのれ――!!』

「《立ち昇れ紅蓮の牆壁しょうへき、その威容で以って蹂躙せよ》――《隔てろ》!」

 激昂するアポクリファの火炎魔術を、バリーは【火炎の壁】でもって迎え撃つ。
 技量で完全に劣るバリーですら同系統の魔術で迎撃でき、あまつさえろくな被害も与えられない。
 それがさらに魔神の怒りの炎に油を注いだ。

『――――――!!!』

 叫ぶような呪文詠唱、輪をかけて高速化する十五本の指。
 力の大部分を封じられてなお生み出される破壊の嵐が、怒りによってさらに激化して放たれた。
 呪縛の爆炎が、雷撃の槍が、意志持つ魔剣が、狂気の音撃が、吸血の呪いが、怒涛のように襲い掛かってくる。
 これほどの物量はいかに神速のステップであっても、魔剣二刀流であっても捌ききれない。
 接近していたコヨーテとミリアはもちろん、後方のルナやバリーをすら巻き込んで放射状に吹き飛ばした。

 崩れかかっていた牢獄の壁を更に傷めつけたその衝撃は、ついに建物を半壊させた。
 束の間の静寂が流れる。

『――とどめです』

 カタカタカタカタカタ、と魔神の指が激しく動く。
 追撃の魔術が着々と準備されつつある。

「く、そ……!」

 しかしコヨーテは動けない。
 咄嗟に防御に回した両腕にはアポクリファが呼び出した異界の魔剣が深々と突き刺さり、滔々と血を流し続けている。
 反対側の壁に叩きつけられたミリアも脚をやられて立ち上がれない様子だった。

「コヨーテ! ミリア!」

 二人に近づこうと、後方で被害の少なかったルナが駆け寄るものの瓦礫に邪魔されて上手く走れない。
 そんな彼女は魔神にとって格好の獲物だったのだろう、残った義手がルナを指し示した。
 義手から放たれた呪縛の杭は、しかし叛逆の翼で大気を叩いて急接近したコヨーテに阻まれる。
 間髪入れずに放たれる火炎の魔術、呪縛の杭と火炎による火刑が彼を襲った。

「……ッ、レーヴァティン!」

 ボロボロの両腕で、それでも【レーヴァティン】の全火力をもって火炎の魔術に抗う。
 火炎魔術のエキスパートであるバリーならともかく、あくまで魔剣を扱うだけのコヨーテでは押し返せない。
 じわじわと熱がコヨーテを蝕んでいった。

「コヨーテ――ッ!」

 ルナの叫びが半壊した牢獄に木霊する。
 まるでその叫びに呼応するように、ルナの背後の空間がぐにゃりと歪んだ。

「え……?」

 一瞬後には歪みに大きなヒビが入り、ガラスが割れるような音と共に向こう側の空間から白い何かが現れた。
 白い身体に白いたてがみ、漆黒の蹄に天を衝く一本角が特徴的な白馬であった。
 かつてルナが病に倒れた際に現れた、聖獣ユニコーンである。

 ユニコーンはひと声大きく嘶くと、前足を持ち上げ、そのまま蹄音を響かせるように踏みしめた。
 同時にその一本角からは清らかな水が飛沫となって『月歌を紡ぐ者たち』に降り注ぐ。
 その飛沫は不思議なほど肉体に染み入り、瞬く間に傷を癒していく。

「まさかまた助けてもらう事になるとはな……」

 コヨーテもまた傷が癒えた腕で【レーヴァティン】を振るい、呪縛を打ち破った。
 彼がユニコーンと初めて相対した時もそうだったが、どうもこの飛沫は吸血鬼の弱点を潜り抜けて傷を癒すらしい。

 二度、三度と飛沫を散らすと、ユニコーンは役目を終えたとばかりに存在を薄くして消え去った。
 ルナは何が何だか分からずにぽかんとしているが、すぐに気を取り直して怪我人の治癒に走る。

「はああッ!!」

 一方で脚の傷が癒えたミリアは【海神の双剣】を閃かせてアポクリファ本来の腕を深く切り裂く。
 そちらに気を取られている内に、コヨーテも【レーヴァティン】でもって義手の指を四本飛ばした。

『おォ、のォ、れェェェ――!!』

 再び、魔神の激昂により魔力が渦を巻く。
 先ほどと同じ轍を踏むわけにはいかない『月歌を紡ぐ者たち』は、素早く退いて一ヵ所に固まった。

「ただ耐えるだけってのもつまらねぇよなァ? とっておきのを喰らわせてやるぜ!」

 バリーは【識者の杖】を掲げ、精神を集中する。

「《熱の暴威、みなぎり満ちる爆火ばくかの力よ》、《きの珠玉、焔の卵よ、焚焼ふんしょうの叫びを上げ、炸裂の羽化を遂げよ》」

 いつものように一節ではなく二節の呪文。
 とっておきと称するだけに、上級の魔術である事は間違いなかった。
 バリーの頭上に現れた拳大の火球が、詠唱の進みと共にぐんぐんと大きく成長してゆく。

 しかし、それをただ眺めているだけの魔神ではない。
 バリーよりも一瞬早く、破壊の嵐をもたらす印による術式が結ばれようとしていた。

「《たま散る黒の柱よ、仮初の闇より這い出でよ》――《射貫け!》」

 だが、バリーよりも魔神よりも一足早く
 アポクリファの背後に大きな魔方陣が展開され、中心に向かって吸い込まれるように消えていく。
 やがて一点に集約された魔力は魔神の影から飛び出て一本の大針へと変質し、アポクリファの肉体を背後から串刺しにした。

『がッ――!!』

 完全なる不意打ちにアポクリファの詠唱が、印を結ぶ指の動きが中断される。
 【影闇の針】と呼ばれるその魔術はチコが唯一習得した初級術式であるが、魔力の扱いがまだまだ大雑把ながらも放った矢が穿った地点を中心に発動するように、技術による補助を加えた必殺の術式だった。
 彼女は一日に一度しか撃てないそれを切り札としてずっと温存していた。
 つまり、ここが勝負の分かれ目となる。

「――《灼き焦がせ》!」

 続いてバリーの術式も結ばれる。
 巨大なトロールすらも飲み込むほどに成長した大火球が、悪夢のような速度で撃ち出される。
 直撃を喰らったアポクリファは身体を犬の後ろ脚のように折り曲げたまま、背後の壁に激突し、大火球はタイミングを見計らったかのように大爆発を起こした。

「ッ、うわあっ!」

 その衝撃は周囲を激しく薙ぎ、『月歌を紡ぐ者たち』すら暴風の余波を受けてよろめくほどだった。
 リューン『賢者の塔』が誇る最大火力の攻撃術式、【炎の玉】。
 爆炎でもって相手を焼き尽くす、至ってシンプルながら絶大な威力を秘めた上級魔術である。

 かつてバリーは相対した――とは言えないほどに一方的な蹂躙であったが――魔道士エイベルに心の底から恐怖し、その魔術の腕に死を覚悟するほどに追いつめられた。
 それはバリーにとってトラウマではない。
 魔術の力量差を見せつけられるように上から叩き潰されたプライドがただ悲鳴を上げていた。
 そんな記憶を塗りつぶすにも、過去の自分を乗り越えるためにも、火炎魔術のエキスパートを自負するバリーにとっては【炎の玉】の習得は必要不可欠であった。

『ば、か……な……定命の人間が……、我が肉体を滅ぼす……など……』

 バリーの放った魔術が、永劫の時を生きてきた魔神に致命傷を与えた。
 すでに右半身のほとんどは吹き飛び、唯一残った左の義手は真っ黒な炭と化している。
 もはやここまでのダメージを負ってまだ言葉を吐けるだけでも驚嘆に値する。

「……この結末が創造主おまえの書いた筋書きとだでも言うのか?」

 そんなわけがない。
 仮に魔神がまだ喋れたとしたら、そう言ったはずだ。

「オレたちの未来は『書かれて』などいない。仲間と共に選び取っていく未来の重さを、その想いの全てを、誰が書き尽くせる?」

『………………』

「お前の……負けだ!」

 もはや瞬きひとつすらできなくなった魔神は、虚ろな目を青空に向けたまま動かなくなった。
 異端書物の魔神アポクリファはその身体をボロボロに崩壊させ、風に吹かれて完全に消え去った。



「こっちに揚げじゃが三つ、リューン風ステーキ二人前、ポトフをお鍋でー!」

 はいはーい、と宿の娘アンナが忙しなく宿の中を走り回っている。
 その手のトレイに載せられた使用済みの皿の山はすべて『月歌を紡ぐ者たち』のテーブルから下げられるものだった。
 食べているのはほとんどチコで、他の連中は主に高い酒から狙って注文している有様だが。

「お前らほどほどにしてくんねぇかなァ……」

 先日の水精事件後の宴会でもそうだったが、仲間内の奢りだと割と容赦しないのが『月歌を紡ぐ者たち』であった。
 しかし先日と違うのは、その時は抑え役に回っていたコヨーテが今回ばかりは我関せずという風に黙り込んでしまっている点だった。
 静かにリューン風ステーキを口に運び、お高めの酒をちびちびっている。

「財布が底を尽きそォなんだが」

「……死ぬほど奢る約束だろ」 

「比喩じゃねぇのかそれ!?」

 ぐわーっ! と悲鳴を上げるバリーであるが、それでも注文は止まらない。
 しかしメニューの端から全部制覇しそうな勢いなチコは今回の迷宮探索において最大の功労者だ。
 止めるに止められない。

「大体、書痴が高じて窃盗まがいの行為を、あまつさえオレを巻き込むところから気に入らなかったんだ」

「うぐ……」

「それに魔神を相手取るのにたった一人で準備するなんて危険すぎる。いつも無茶するなとか言ってくるくせに、自分で出来なきゃ説得力ないぞ」

「うぐぐ……」

「反省しろ」
 
 こうして終末の空色教団をめぐる事件は幕を閉じた。
 教団の真実を解明し、魔神を滅ぼした事で治安隊から『月歌を紡ぐ者たち』に少なからぬ賞金が出たが、バリーが何回にも分けて牢獄に敷いてきた魔神封じの儀式とその触媒の代金、そしてその夜『大いなる日輪亭』で開かれた飲めや歌えやの大宴会の支払いを除くと、たいして残りはしなかった。

「親父さーん! ミートパイ追加ー!」

「まだ食うのかよお前ぇぇぇ!!」

 バリーは本気で銀貨が尽きる覚悟をしつつ、二度とコヨーテを怒らすまいと心に誓った。
 後にバリーはこう語る。
 『怒れる魔神より目の前でキレかかっているコヨーテのほうが怖かった』、と。



【あとがき】
今回のシナリオは吹雪さんの「迷宮のアポクリファ」です。
怪しげな新興宗教の裏に潜む巨大な陰謀に立ち向かう、迷宮の探索あり大物とのバトルありで大満足の中編シナリオです。
全ては参謀の知識欲から始まり、それを心配しつつあれこれと走り回るリーダーという関係性が非常にストライクでありました。

コヨーテが真なる魔剣、ミリアも神剣を得たため、これまで以上の大物と戦わせてみたい。
そういう欲から今回のシナリオを選んだと言っても過言ではなく、しかし誰のためかと問われるとやっぱりバリーとチコのためだったかな、と思います。
ひっそりユニコーンも再登場していますが、彼についてもまた追々。

今回、何を置いてもまずはチコでしょう。
レベル3の時点で彼女の弓の腕前はほとんど完成しており、これ以上の『何か』を求めるには別の手段を選ぶ必要がありました。
段々と通常の得物だけでは易々と無効化してくるようなエネミーも増えてきて、ただ生きるためでなく、強さを得るためにチコはその『何か』を探す事になるのです。
決定的となったのは五月祭の日、ロスウェル弓術大会においてであったスロットさんとの会話ですね。
こうして彼女の勉強が始まるわけですが、バリーとまったく同じ道を歩むのでは意味がないため、こっそりとレギウスやクロエに協力を仰ぎつつ、彼女自身の道を歩む事になったのでした。
これからは直観と閃きのチコ、膨大なる知識のバリーという立ち位置で進んでいくかもしれませんね。

そしてバリー!
『大いなる日輪亭』では初のレベル7技能を習得しました。
作中でもありますが、やはり彼は火炎魔術のエキスパートらしく、そして過去の記憶を塗り替えるためにもこのスキルでなくてはなりませんでした。
早逝した彼の父オスカーの全盛期と比べても勝るとも劣らず、バリーもまた一流の魔術師として一歩を踏み出したのです。
所持スキルの半分が炎による攻撃+敵全体という被りっぷりですが、わたしは気にしません!


☆今回の功労者☆
チコ。お前の才能はまだまだつぼみなんだから無限の可能性を求めて征くのだ!


購入:
【影闇の針】-1000sp(四色の魔法陣)
【炎の玉】-1800sp(交易都市リューン)

報酬:
治安隊の依頼:600sp
危険手当:200sp
魔神討伐の賞金(諸経費を除く):100sp

戦利品:
【創作ノート】→チコのバックパック(笑)
【Beginng】

LEVEL UP
バリー、ミリア→6

銀貨袋の中身→4217sp


≪著作権情報≫
今回プレイしたシナリオ
『迷宮のアポクリファ』(吹雪様)

今回使用させて頂いたキャラクター
『バルムス』(出典:『正義の精霊』 作者:アレン様)
『カンタペルメ』(出典:『劇団カンタペルメ』 作者:柚子様)
『エイベル』(出典:『盲目の道筋』 作者:takazo様)

当リプレイはGroupAsk製作のフリーソフト『Card Wirth』を基に周摩が製作したリプレイ小説です。
著作権はそれぞれのシナリオの製作者様にあります。
また小説内で用いられたスキル、アイテム、キャスト、召喚獣等は、それぞれの製作者様にあります。

『迷宮のアポクリファ』(3/4) 

 ふと気が付けば、視界はがらりと変わっていた。

「っ……!」

 空は立ち込めた雲で閉ざされ、足元は切り立つ崖になっていた。
 崖の底は白く流れる霧で覆い隠されている。
 どこを見渡しても宿の屋根裏部屋も、あの経典も、魔術師バンディッシュの姿も見当たらなかった。

「……どうやら侵入できたようだな」

 魔術的空間という話だったが、信じられないほどリアルな空気を感じる。
 まるで単純にどこか遠い地へ転移させられたかのような錯覚に陥った。

「コヨーテ、向こう。何か見えるよ」

 レンツォが指した先に、コヨーテたちは目を凝らした。
 色褪せた影絵のような世界の先に見えたのは、

「塔……?」

 五つ――いや、六つの古ぼけた塔が天を衝いて聳え立っている。
 そしてその塔はそれぞれ霧の海の上で細い空中回廊によって繋がれていた。

「すげー、言われたとおりじゃん。『本の中の牢獄』……」

「何が待ってるんだろうね……でも、進むしかないんだなぁ」

 『月歌を紡ぐ者たち』は注意深く霧の中を進み、もっとも手近な塔へと辿り着いた。
 とはいえ他の塔へは陸が続いていないため、空を飛ぶでもしなければ侵入できない。
 塔は青く冷たい、見た事もない石で組み上げられている。

「何か彫ってあるね……『召喚術師カナーリォが造りし七塔の迷宮』、『四つの色を、虚ろなる空に取り戻せ』?」

「七塔、か。ここに来る前に見た塔は六つだけだったが……」

「ともかく情報、情報だよ。たくさん集めないとその辺の言葉も意味わかんないからねー!」

「了解、参謀殿」

 メンバーを一人欠いているが、チコはもともと後衛だったためいつも通りの隊列を守って歩を進めた。
 塔の中は牢獄の名の通りというべきか、ひどく殺風景だった。
 空間そのものが牢獄になっているのに上も下もないだろうが、他の塔に移動するためには空中回廊を目指す他なく、必然的に塔の頂きを目指す事になる。
 長い長い螺旋階段をひたすらに昇り、やがて塔の最上階に辿り着いた。
 部屋の前には見慣れない金属でできたプレートが掛けられており、『静謐の間』と刻まれたそこには続けてこう刻まれている。

『静謐の空から、眠りの青は失われた』

 そこは今までの殺風景な階段とは違い、ようやく開けた場所になっていた。
 青を基調とした部屋で、床には物音が立たない素材が使われているのか、これまでとは違って靴の音が一切反響しない。
 これまた青いシーツが目を引く寝台が置かれている以外には特にこれといった調度品はなく、壁には星空を描いた絵が掛けられている。

「灰、黒、白……いわゆる無彩色しか使われてない」

 結局、『静謐の間』で得られた情報は少なかった。
 しかし、塔は六つ――名前から読み取るのであれば七つ――あるのだから、最初の塔ですべてが解明できるとは思っていない。
 この部屋も謎を解明するために必要な鍵であるかもしれないが、今はともかく取っ掛かりを見つける事が先決だ。

 『静謐の間』からは北と西、二つの塔への空中回廊が伸びていた。
 しかし北側の回廊は長い年月に耐えられなかったのか、途中で完全に崩落しており、とても向かいの回廊へは進めない。
 すぐさま引き返し、西側の回廊を通って次の塔へと向かう。
 空中回廊も年季の入った朽ち方をしているものの、北側の回廊のようにすぐに崩落するような事はないだろう。

「うわわ、高いですね……」

「怖いならあんまり窓側に寄るなよ。風は吹いているんだから」

 白い霧で覆われた地上が存在するのかはさておくとしても、落下して死なない保証はどこにもない。
 何が起こっても対応できるよう、気を抜かずに回廊を進んでいく。
 ややあって、次なる塔に辿り着いた。
 ここにも同じくプレートが掛けられており、『黄昏の間』の文字と共に一文が刻まれている。

『黄昏の空から、黄金の残光は失われた』

「うーん、ここもやたらと年月を感じさせるね。装飾品もところどころ風化しちゃってるよ」

「こちらにも絵がありますね。これは……夕暮れでしょうか?」

 元は鮮やかだった様子が、今はすっかり色褪せている。
 夕暮れ、つまりは黄昏だ。
 どうやら部屋の名と絵画のモチーフは連動しているらしい。

「チコ、どうです? 何か分かりますか?」

「静謐に黄昏。塔ごとに記号が埋め込まれているのは間違いないねー。塔が七つというなら、あとひとつ見たらだいたい分かるかも?」

「本当ですか、頼もしいです!」

「……チコに対して甘いのは君もじゃないのか?」

「わ、私はチコの成長を褒めただけですので!」

「はいはい、漫才はその辺で終わってね。ええと、次は『虹の間』だってさ。……お? なんかさっきまでと雰囲気違うね」

 話している間にも『月歌を紡ぐ者たち』は歩を進め、三つ目の塔へと辿り着いていた。
 『虹の間』のプレートはこれまでの定型文のような記述ではない。

『空より光は還る。人の子と、人ならざるものの子が、心に真実を持つならば』

「ここは特別な場所みたいだね。名前からして七塔の中心なのかも」

 確かに『虹の間』はこれまでの二つの塔とは造りが異なっていた。
 天井はひときわ高く、天辺はガラス張りで空の光が差し込んでいる。
 まるで科学の実験でもしていたかのように、机の上に空のガラス瓶がいくつか置いてある。

「これは……プリズム?」

 部屋の一段高いところに水晶でできた三稜鏡プリズムが設置されていた。
 東西南北に四つ、それぞれ赤、青、黄、紫の四色がある。
 明らかに魔術的記号だ。

「……っ!」

 チコと一緒に手近な黄のプリズムに近づいたコヨーテは息を呑んだ。

『醜きもの、人にその身を捧げるもの、心しずけきもの、多くを願うもの――そして、空を行く竜の子が触れよ』

 コヨーテの頭の中に、男とも女とも分からない無機質な声が響いた。
 チコも頭に手をやって思案顔をしている。
 罠というには大げさだが、プリズムに近づいた者に無差別で発動する魔術のようだった。

「……触れれば何かが起きる」

「うん。『声』の通りに資格を持つ者が触れれば『光は還る』……はずだよ」

「資格を持たなければどうなる?」

「……きっと死にはしない。けど厳しめのペナルティが降ってくるだろうね。まだ触んないほうがいいよ」

「どこから読み取ったんだ、それ」

 チコは悩むように一頻り唸った後、おもむろに口を開いた。

「まだ半分も塔を見てないからちょっと想像も入ってるけどね。色とかプリズムとか、たぶんこれって『鍵』だよ。なんかそういう勿体ぶった言い方じゃなくて、そのままなんだ」

「そうなのか?」

「虹って橋みたいに見えるでしょ。空にかかるところからも地上と天界を繋ぐ架け橋みたいな解釈がされる事もある。有名どころでは北欧神話、神々が渡る橋ビフレストがあるよね」

「あるよね、って言われても知らないんだけど……くっそぉ、チコに知識で負けたみたいでちょっと悔しい」

 レンツォは本気でショックを受けている様子だったが、チコは構わず話を続ける。

「静謐が青、黄昏が黄を失ったのなら、それは虹――外との懸け橋――が欠けているって意味だよ。色を戻してやれば橋が造られ、外への出口が現れるはずだよ」

「となれば紫と赤を失った塔もあるのか。だが、バリーを惑わした方法に関しては……」

「今のところ手がかりはないね」

 しかし出口をこじ開ける方法が見つかったのであれば何よりだ。
 まだ塔の全てを調べたわけでもなし、色に関する情報以外も出てくるはずだ。
 念のために全てのプリズムに近づき、おそらくは脱出の鍵となるであろう言葉をメモに取った。

「ひとまず、ここのプリズムは全部の塔を回った後だね」

 チコの言葉に頷き、『月歌を紡ぐ者たち』は更に迷宮の奥へと歩を進めていく。



「ありゃ、ダメじゃん」

 『虹の間』から北に位置する空中回廊は長い年月の重みに耐えられなかったのか、途中で崩落していた。
 最初の塔にも崩落した回廊があったが、これで北のルートは完全に孤立している事になる。

「向こうに致命的なヒントがあったらどうしましょう……」

 回廊の崩落が昨日今日のものでない可能性もあるため、色を失った絵画がある塔ではないかもしれない。
 しかし、わざわざ本の中の牢獄に足を踏み入れたのはバリーを惑わす何かを調査するためだ。
 そこに重要な何かが眠ったままになってしまうのはとてもよろしくない。

「ねーコヨーテ、コヨーテって飛べるんだよね?」

「ああ、少しくらいなら」

「あれ見てあれ。こっちは崩落が大きくて空が見えるでしょ? あそこから飛び出せない?」

 チコが指さした先は天井に大きめの亀裂が走り、そこから曇天が覗いている。
 確かにコヨーテの叛逆の翼があればそこから飛び立ち、向こう側へ辿り着く事ができるはずだ。

「分かった。調査してくる――って、おいチコ。どうして背中に張り付いてくるんだ」

「私がいかないと魔法的な仕掛けは分かんないでしょー。大丈夫大丈夫、私ってば超軽いし」

「確かに一人くらいなら飛べるだろうが……翼ってのは背中に生えるものだからな?」

「つまり前から抱き着けと言いたいんすね? やだーコヨーテのえっちー」

「……足にでもしがみついてればいいんじゃないか」

「わー、うそうそ! ごめんってばー!」

「先に言っておくが、飛ぶのにはあまり慣れていない。あまり暴れるなよ」

 ひと悶着あったものの、得物はすべて真紅のリボンに格納し、コヨーテはチコをお姫様抱っこした。
 そのままでは不意の事態に取り落としかねないので、チコの両腕は首に回してもらう事で安定性を高めた。

「軽く調査したら戻る。何があっても深入りはしないから、皆は休憩でもしていてくれ」

「くれぐれも無茶だけはしないでくださいね」

 コヨーテは頷いて、背中から漆黒と純白の翼を展開する。
 【黒翼飛翔】により生まれた蝙蝠の片翼と『叛逆者』による鳥類の片翼で大気を叩き、空中へと飛び出した。

「わぁ――」

 チコは感嘆の声を漏らした。
 地上は相変わらず白い霧に覆われているが、それでも数十メートルはあろうかという塔の空中回廊から飛んでいるのだ。
 絶景というには恐ろしいものの、六つの塔が空中回廊で繋がっている様が良く見える。

「これは……!」

 そう、良く見えた事で知ってしまう事実があった。
 『静謐の間』のあった最初の塔、そして『虹の間』のあった塔から伸びていた空中回廊がどちらも崩落していたのは偶然ではなかったのだ。
 回廊が繋ぐ先、おそらくは七つ目の塔へ向かっていたはずのそこには、

「もしかして……老朽化で倒れた? あるいは何らかの目的があって壊された?」

 だとしても折れた先を探すにはあるかも分からない地上へ降りなければならない。
 そうするにはとてもじゃないがコヨーテの翼がもたないだろう。

「……残りの塔に謎が残っているといいが」

「待ってコヨーテ、諦めちゃダメ。あっち見てよ」

 チコはなぜか頬をつねってコヨーテの顔の向きを矯正した。
 そこは何らかの魔力の影響でもあるのか、大きな岩場が空中に漂っているように見える。
 いや、事実浮遊しているのだ。

「――行ってみよう」

 このまま無手で戻っても特に進展はない。
 であればおそらくは七つ目の塔と隣接していたであろうあの岩場に何かが残っていると希望を抱かずにはいられない。
 岩場には小さな石造りの建物があり、鉄格子の降りた門があった。

 門は固く閉ざされている。
 それを開く仕掛けのようなものも、鍵穴すらも見当たらない。
 これではいくら本職のレンツォを連れてきてもお手上げだろう。

「……うわぁ、すげー。この門、やばいくらい硬いよ。何重にも硬化の魔法がかけられてる」

「……魔法的な罠がある可能性は?」

「ないね。殴ってみなよ」

 お言葉に甘えて、とコヨーテは【レーヴァティン】を思い切り振りかぶって鉄格子に向けて振り落とす。
 凄まじい金属音が鳴り響くが、摩耗しない真なる魔剣【レーヴァティン】はともかく、それよりもずっと細いはずの鉄格子にも傷ひとつついていない。

「これを壊すには相当数の攻城兵器か、ドラゴン数匹がいないと無理だねー」

「魔法の解除はできないか?」

「ダメ。専門外。つーかたとえできたとしても何十にも折り重なってるから、解呪だけで数日かかるよ」

「そこまで厳重なのだとしたら、この先にこそオレたちが求めている答えがある気がするな」

 これだけの手間と魔法をかけて守っているものとは一体何なのか。
 おそらくは万が一にでも外に出す事があってはならない、教団の急所のようなものなのだろう。
 あるいは門を開けるための何かが消えた塔にあったのかもしれないが、それでも他の塔に可能性が残っていないとは限らない。
 コヨーテとチコは岩場での調査を打ち切り、元の回廊へと再び飛んで戻っていった。

「たーだいまー!」

 合流した仲間たちに得た情報を共有すると、『虹の間』まで引き返して次の塔を目指す事にした。
 次なる塔へと進もうとするが、塔と塔とを繋ぐ空中回廊の向こう側からは強い風が吹きつけてきた。
 進むのも困難なほどの強い向かい風だ。

「これは自然の風じゃないよ。この先にある魔法的な装置が吹かせてるね」

「でも、何のために?」

 冒険者たちは顔を見合わせた。
 通路の手前側、門扉の横に白骨が転がっている。
 随分奥から風で飛ばされてきたようだった。

「この白骨、妙だね。胴体や首の骨が鋭利で重い何かですっぱりと斬られている」

「……剣や斧ではこうはならないわ。たとえコヨーテ以上の膂力があったとしても無理よ。技術的な問題でなく、相当の質量と速度が必要ね」

「しかもこの白骨、一人じゃない。何人かの遺骨がから飛ばされてきたんだ。一体、この風は――」

「――レンツォ! 止まりなさい! それ以上動かないで!!」

 調査のためじりじりと歩を進めるレンツォを、ミリアが鋭く静止した。
 反射的に身構える冒険者たちの、その鼻先を。

「――ッッッ!?」

 轟! と低く唸る何かが横切って行った。

「こいつ、は……!!」

「そう、こいつよ! さっきの白骨死体をバラバラにしたのは!」

 二度三度と振り子のように通路を横切り続けるそれは、巨大なギロチンであった。
 魔法的な突風で視覚と聴覚を鈍らせ、物理的なギロチンによる必殺という二重の罠。
 どちらか一方にのみ精通していたとしても無事には通れない、そんな道だった。

「このまま突っ込んでいたら今頃全員真っ二つでしたね……」

風精シルフの動きが妙なのに気づかなかったら危なかったわ」

「うへぇ、悪趣味……助かったよミリア」

 罠の様子を見守っていたレンツォはチコを手元に呼んだ。
 突風の中で音が掻き消されるもののどうにか意思を伝えると、チコはすぐに弓に矢を番える。
 巨大な刃が往復するタイミングを計り、合間を縫うように矢を放つよう指示を出した。

 ヒュガッ! と矢は敷石の隙間に突き立つ。
 それと同時に、数多の人間を殺めた無慈悲なギロチンは動きを止めた。
 突風に邪魔されながらもレンツォは罠の停止装置を見抜き、そこを狙撃させたのだった。

「この手の罠は維持管理のためにすぐそばに停止装置がある事が多いんだ」

 蛇の道は蛇。
 戦う力がなくてもレンツォは『月歌を紡ぐ者たち』にとってなくてはならない存在なのだ。

 その後も三重の罠がないか警戒しながらも、一行は着実に回廊を進んでいった。
 ややあって現れる回廊の終わりにして部屋の入口にはお決まりとなったプレートが貼りつけられていた。
 『嵐の間』と刻まれたプレートには共にこう刻まれている。

『嵐の空から、紫電の雷光は失われた』

 天井の中ほどに天窓があり、そこから強い風が吹き下ろしてきている。
 どうやら途中の回廊に吹き込んでいた突風はここから供給されていたようだ。

「おおー、この突風の術式って塔そのものに組み込まれてるタイプだよ。すげー!」

「つまり?」

「解除不可能! 無理やり解除しようとすると塔も一緒に崩れるよ! てゆーかそれ以前に解除するほどの腕がなーい!!」

「楽しそうに言う事じゃないでしょ」

 何はともあれ、突風は直接的な害を与えない罠だ。
 風の音が鬱陶しいものの、解除できないからといって致命的な要因にはならない。
 気を取り直して調査を再開すると、ここにも今までの塔と同じく壁に絵画が掛けられていた。
 無彩色ではあるが嵐の空を描いたもののようだ。

 『嵐の間』にも脱出の鍵以外の情報はなく、『月歌を紡ぐ者たち』は次なる塔へ進んでいく。
 突風は『虹の間』とを繋ぐ空中回廊にしか吹いておらず、別の塔へ向かう回廊は風がないだけで快適に思えるほどだった。

「むっ」

 レンツォが何かに気づいて立ち止まる。
 ズッ、ズッ、と何かを引きずるように迷宮の闇の奥から何者が近づいてくる音がする。
 採光窓から溢れる光に照らされたそれは、人の姿をしているが、およそその生命を感じ取れるような形をしていなかった。

「ゾンビか……」

 かつては信者だったのだろう。
 空色教団の僧服に身を包んだ動く屍たちは無残な姿で冒険者に襲い掛かった。
 が、次の瞬間には魔剣と神剣が閃き、ゾンビたちの首を残らず刎ね飛ばしてその動きを止めさせた。
 ゾンビの亡骸を回廊の端に寄せ、コヨーテたちは思索する。

「なんだって牢獄にゾンビが? いや、それよりもあの僧服、空色教団の信者で間違いないと思うが……なぜ信者がゾンビに?」

「空色教団があらゆる非道を行ってきた事は周知の通りですが、信者までも実験に使っていた……というのも苦しいですね」

「信者の中でも罰せられるような人間だったとか?」

「処刑場に使っていたのかも」

 結局のところ、本の中の牢獄がどんな目的で使われていたかははっきりしていない。
 しかし突風の罠を越えた先にゾンビがいたとすれば、あるいは番犬代わりに放ってある可能性もある。
 心臓部が近いのかもしれない。

『夜明けの空から、始まりの赤き輝きは失われた』

 次の塔は『暁の間』、そしてプレートにはそう刻まれていた。
 同時に、例のごとく無彩色で描かれた絵画も壁にかけられている。
 それよりも目を引いたのは、空中から大きな檻がいくつもぶら下がっており、その中には粗末な身なりの老人が入っている事だった。

「……騒がしいのう。なにごとじゃ?」

 どうやら意思の疎通は可能なようだ。
 ついさっきゾンビを倒した得物を抜いたままだったので説得力がなかったかもしれないが、どうにかこちらに敵意がない事を伝えた。

「何者なんだ、あんた」

「色々あったが忘れてしまったよ。ここでは腹も減らん、記憶も曖昧になる。覚えとるのは……教団の司祭に言葉巧みに誘われてここにやってきたが、最後は魔神の生贄にされるちゅうてここに閉じ込められた事だけじゃ」

「魔神の……生贄!?」

 突拍子もないワードが出てきて、思わずチコは声を上ずらせた。
 空色教団の者と思しきゾンビがどうして現れたのか、その謎が一気に解けそうな予感がする。

「この迷宮を作った魔術師は異界から呼んだ魔神をここに閉じ込めようとしたのじゃ。じゃが魔神は魔術師を喰らい、ここから脱出した。今にして思えば……空色教団とは創造主の意に従う教団ではなく、魔神の口車に踊らされた者たちだったのかもしれぬ」

「……その魔神は一体どこにいるのです?」

「『司祭の下に連れて行かれた信者は誰も帰ってこない。あの司祭こそ、魔神が姿を変えた者に違いない』……遠い昔、信者の一人がこう言っておった。そやつも司祭に呼び出されてから一度も顔を見ておらんがな」

 コヨーテの心臓が跳ねた。
 あの女司祭がその魔神だというのか。
 もしそれが真実であれば、それに何度も会いに行っているバリーはどうなっているのか。

「思えば若くしてあの落ち着き、それに異様な美しさ――何年も姿が変わらぬのも数々の術を使いこなすのも、魔神の変化というなら道理じゃ」

「……お爺さんはなんでここに?」

「ここは空色教団が信仰心の厚い者を集める特別な寺院だったのじゃよ。いや、司祭からはそう聞かされていたが、実際に来てみればそうではなかった……単なる牢獄じゃ。ここは魔神が欲しがる人間の魂を閉じ込める場所だったのじゃ」

 自分が閉じ込められるはずだった牢獄を、逆に好き放題使いまわしているという事か。
 魔神の名に相応しい傍若無人っぷりだ。

「仲間は皆、魔神に魂を食われ、死人使いに生ける屍にされてしもうた」

「オレたちがさっき葬ったゾンビか……」

「わしもこの檻が壊れて閉じ込められておらなんだら、あの死人と同じ運命だったのじゃろうな」

 もう何十年、下手すれば何百年とここに閉じ込められているのだろう老人は、悟ったような物言いをした。
 その様子に、思わずコヨーテは口を開いた。

「……なぁ、爺さん。ここから出たいか?」

「ほほっ、随分優しい侵入者じゃな」

 そう言って、初めて老人は笑顔を見せた。
 しかしその色もすぐさま薄く寂しさを湛えたものに変わる。

「もはやすっかり身体が弱ってな。ここから出たら長くは生きられんじゃろう。気持ちだけ、ありがたく受け取っておくよ」

 老人は満足げに頷いた。
 それに対してコヨーテは何も言えず、ただ奥歯を噛んだ。

「いや、久しぶりに人と話した。好い気分じゃのう。話をするのは。昔はわしも、絵師として……多くの人間と」

「……ッ!」

 老人が檻に添えていた手が急速に痩せ細り始めた。

「そう、そうじゃった……わしは絵師だったのじゃよ……思い出した――エドゥアルド・カリェーハにあこがれてのう――絵筆をとった」

 彼が話している間にも、変化は起こり続けている。
 夢現で言葉を紡ぐ老人の身体は少しずつ灰となり、崩れ始めた。

「お前さんらが良い眼をした美男美女ぞろいで……絵心が戻ってきたわ……」

「もう……、もう喋るなッ!」

 コヨーテは黒白の翼を羽ばたかせて飛翔する。
 檻だろうが何だろうが、こじ開けてでも老人を外へ出したかった。
 たとえ保たないとしても、檻の中で命を尽き果てさせたくはなかった。

「絵は……絵は良いのう。わしも最後に、お前さんらの絵を……描いて、みたかっ……た――」

 そう言い残し、老人は灰となって檻の底に崩れ落ちる。
 老人の手を取ろうとしたコヨーテの手の中には、一本の絵筆が遺された。

「……くそっ!」

 もはや誰もいなくなった檻が寂し気に揺れる。
 錆びついた鎖が軋む音が、やけに耳障りに『暁の間』に響き渡った。



 『嵐の間』まで戻り、もう一つの空中回廊を進んだ先には大きな門が立ちはだかっている。

「たぶん、ここが一番遠くに見えた大きな塔の真下だよ」

 門の左右には翼をもつ悪魔の彫像が鎮座ましましている。
 ここまであからさまだと、いわゆる守護者としてのガーゴイルである可能性がある。

「ま、たとえガーゴイルだろうが退けるはずがないんだけどね」

「同感だな」

 そう言ってコヨーテは左の、ミリアは右の石像へと歩み寄る。
 次の瞬間、彼らの目の前で二つの石像が羽ばたき、空中へと舞い上がった。

「やはりガーゴイル!」

 十分な警戒をもって歩み寄った二人は奇襲を受けず、そのままガーゴイルと相対する。
 本来なら屋内でのガーゴイルは大仰に飛べないためさほど脅威ではないのだが、この空中回廊は異常なまでに天井は高く、彼らは自在に飛びまわっていた。

「動き回られると厄介だな」

「同感ね」

 ミリアはコヨーテの考えを見抜いたように言った。
 事実、彼女は海神の双剣を頭上に振り上げて、腰を低く構えている。
 コヨーテも【レーヴァティン】を引き絞るように切っ先を相手に向けて構えた。

「はぁぁ――!」

 二体のガーゴイルは飛翔し、鋭い爪を繰り出してくる。
 あのスピードでヒット&アウェイを繰り返されると厳しい。
 ならばその強みである翼を引き裂いてしまえばいい。

「――!!」

 コヨーテとミリアに向かい、ガーゴイルは風を切って迫りくる。
 すれ違う瞬間、二人はそれぞれの得物をそれぞれの技術の粋を集めた技を振るう。
 ミリアの持つ【海神の双剣】の刃から青白い魔力が滲み、それは半実体の斬撃となって放たれた。
 コヨーテの持つ【レーヴァティン】が激しく火花を散らし、炸裂の衝撃で爆発的な超加速を得た一閃が放たれた。

 【斬塊閃】、そして【既殺の剣】。
 ともに『必殺』の名を冠するほどに研ぎ澄まされた一撃は、ガーゴイルの翼を完膚なきまでに破壊して地に墜とした。
 そうなればいかに魔法生物とはいえ鈍重な怪力持ちでしかなく、数で勝る百戦錬磨の冒険者の敵ではない。
 さほど時間を置かず、ガーゴイルは粉々の石塊となった。

 ガーゴイルを倒した事が条件となっていたのか、門がゆっくりと開く。
 門をくぐり、ついに『月歌を紡ぐ者たち』は最後の塔へと足を踏み入れた。
 外から見て最も巨大な塔は『召喚の間』と銘打たれており、更に奥へ進む通路も存在している。

『空に四つの色が還る時、閉じた円環は柱となる』

 プレートに刻まれた文字から読み取るに、やはりチコの推察は当たっていたと言える。
 この牢獄から出るにはそれぞれの塔に色を戻してやる必要があるのだ。

 更に奥へ進んだ先にももう一つの部屋が存在した。
 そこにはこれまでの部屋と同じくプレートが掛けられていたが、その文面はおよそ一致するものではない。

「『生体実験区画』……?」

『薬品精製装置の扱いには十分注意すること。有毒ガス発生の危険あり!』

 これまでの詩的な文章とはかけ離れた言葉だった。
 すなわち牢獄の出口に至る道筋ではないという証左である。
 部屋の中は所狭しとフラスコや薬品が詰まった棚がひしめき合い、ある区画には謎の器具もあった。

「何かの実験に使われていた区画みたいだけど、なんだかよく分からないね……」

「教団本部にあった実験の記録にも合致しないような、そんな類の特別な場所なのかもしれない」

「まだ稼働してそうな器具もあるけど、とりあえず触んないほうがいいよ。マジで毒ガス出るかもだから」

 器具には触れないようにしつつ、レンツォはさらに調査を進めていく。
 すると、近くの本立てに器具類のマニュアル一式が見つかった。
 内容を精査するに、どうやらその器具は古代の秘薬を作り出すためのものだった。

「この装置で人間が異種族になる薬が作れるらしいね。装置に残っている材料がもうわずかしかないから、作れる量にも限りがあるけど」

「……どういう事だ?」

「吸血鬼化、木偶人形化、竜化、獣人化……要するにそれらの秘薬を飲めば身体の構造が組み変わって、まるで元から吸血鬼や木偶人形だったみたいにんだそうだよ」

 それも一昼夜限りだけどとレンツォは付け加えるが、とんでもない事だった。
 確かに人間の肉体を吸血鬼に変える術式は存在する。
 だがそれも相当に高位の魔術であり、とても単なるカルト教団が用意できるような術式ではない。
 それどころか、一昼夜とはいえ魔力から切り離した物体として精製するなんて恐ろしい技術力であると言わざるを得ない。

「……こんなもの、一体何のために」

「ですが、空色教団がそのような魔物を従えていたという記録はありません。何かの間違いでは?」

「相当数の実験が行われた形跡があるわ。これは空色教団の行った非道からも読み取れる事実よ。これを覆さない限り、その器具が生み出す秘薬がそうでないと否定はできないと思うけれど」

「たぶん、全部つながったよ――」

 一人静かに器具のマニュアルを読み続けていたチコは口を開いた。

「きっとこの牢獄自体が空色教団に都合のいいように書き換えられてるんだと思う。だから『七塔の迷宮』には六つしか塔がなく、空に色を取り戻すためにはそれらの薬品が必要なんだ」

 チコは『虹の間』でメモを取った、プリズムが囁く言葉を示した。

「『竜の子』、『獣』、『人の形に作られし命』、『血の祝福を受け、夜を行くもの』……これらがそれぞれの四つのプリズムに対応していて、適応する者が触れれば『空に色は還る』、つまり脱出だよ。って事は、それらの要素を持たない者がここを出るにはどうすればいい?」

 問われるまでもない。
 脱出の方法は空に色を還す他に見つかっておらず、水も食料も存在しないこの世界で長く生きる術はない。
 であれば、得体のしれない薬品だとしても縋るだろう。

「教団は何を考えている?」

「……最初から公言してるよ。『言葉を持つ生き物は創造主が何かを成すための入れ物』だって。そしてこう続く。『それに気づいた人間は世界を変えるだけに十分な力を手に入れられる』」

「――まさか」

 思わず言葉を詰まらせたルナに、チコは静かに頷いた。
 不死者となった教団員、檻の中の老人の言葉がそれらを証明している。

「空色教団の教えの通りに肉体という入れ物を捨て去り、竜や獣、吸血鬼や人形ひとがたとなってでも牢獄を出ようとする強い衝動……きっと魔神はそれを欲しがったから……

 不死者となった信者たちは単なる生贄ではなかった。
 おそらくは彼らも肉体を捨て去るほどの熱心な信者であると見初められて、ここへ閉じ込められたのだろう。
 しかし彼らは脱出しなかった。
 得体のしれない薬品を服用する勇気、あるいは蛮勇を持ち得なかった。
 そんなものがいつまでも牢獄に放置されていては邪魔にしかならない。
 だから魔神はそのままに喰らったのだろう。

「すべては魔神のために……か」

 コヨーテの呟きは塔の中に虚しく響き、そして消えた。
 空色教団は単に魔神に騙された生贄の集団だった。
 魔神の持つたったひとつの悪意が、あらゆる人間を不幸にし、涙を流させていた。
 到底許しておけるものではない。

 一行は『虹の間』に戻った。
 欲した情報はほとんど集め終わっており、この牢獄にこれ以上長居する必要もない。

「さ、まずはコヨーテ。赤いプリズムに触れてみて」

「……分かった」

 かなり軽いノリで言われてしまい、ちょっと面食らいつつもコヨーテは赤いプリズムに近づいた。
 同時に、頭の中に声が響き渡る。

『美しきもの、己の望みに生きるもの、心明るきもの、多くを求めぬもの――そして、血の祝福を受け夜を行くものが触れよ』

 コヨーテがプリズムに触れると、それは微かに赤く発行した。
 やがて空中から一条の赤い光がプリズムに伸び、やがて傍にあった空のガラス瓶に集まると、煌めく赤色の塗料へと姿を変えた。

「『吸血鬼』のプリズムはいいんだろうけどさ……残りの『竜』、『獣』、『人形』はどうすんのさ」

「まぁまぁ、まずはこれ見て」

 チコはメモを広げて説明を始めた。

「四つのプリズムに四つの要素。……だけど、何も『竜』とか『獣』が必要なわけじゃないんだなー、これが。ほら、書きだしを見てよ」

『美しきもの、己の望みに生きるもの、心明るきもの、多くを求めぬもの――そして、血の祝福を受け夜を行くものが触れよ』
『醜きもの、人にその身を捧げるもの、心しずけきもの、多くを願うもの――そして、空を行く竜の子が触れよ』
『神を信ずるもの、約束の王国を望むもの、儚き絆を信ずるもの、未来を恐れぬもの――そして、人の形に作られし命が触れよ』
『神を信じざるもの、変転の未来を望むもの、永遠の栄光を望むもの、未来を恐れぬもの――そして、大地と獣の力を継しものが触れよ』

「……前半と後半が必ずしもつながっているとは限らない?」

「そのとーり! 『竜』とか『獣』は外見でそれと分かる要素なだけで、実際には内面を問いかけているもののほうが多いんだよ」

 プリズムに近づいた時に頭の中に声が響くのもその判定のためだとチコは言う。
 外見にも言える事だが、こと内面を推しはかるには単なる問答では意味がない。
 蝙蝠が反響定位エコーロケーションを用いて周囲を把握するように、声に対して特定の要素にだけ跳ね返るような仕掛けがあったとすれば、判定は可能なのだろう。

「だからさ。青は『約束の王国を望む』意外と秩序派なミリア、黄は『人にその身を捧げる』献身的な性格のルナ、紫は『未来を恐れぬ』楽観的な考えをしてるレンツォがそれぞれ触れれば問題ないんだよー! さー行ってこーい!」

「意外とって何よ失礼ね」

「チコがすごくそれっぽい事言っててちょっと感動的なんですけど……」

「ふはははは、しょうがねぇ。『未来を恐れぬ』レンツォさまがやってやるぜ!」

 半信半疑ながらも、ルナたちはそれぞれ指定のプリズムに手を触れた。
 するとコヨーテの時と同じく、プリズムは光を放った後に近くのガラス瓶を塗料で満たした。
 あくまでバリーがいない間の代わりだと割り切っていたが、ここまでやれるとなればさすがにチコへの評価を改めねばならないだろう。

「もうバリー要らないわね、これ」

「変なところでつまづくのがチコだよ。あんまりおだてないほうがいいよたぶん」

「ぶー! こんな時くらい素直に褒めてよねー!」

 一端の魔術師であると証明したチコだが、そうやって頬を膨らませて拗ねている分にはいつも通りだ。
 レンツォの言い分も取り入れて、コヨーテはただ黙ってチコの頭を撫でた。
 とはいえバリー不要論は即座に撤回されるべきであるが。

「あとは塔にかけられていた色を失った風景画に塗りたくれば『色は空に還る』んだけど……ひとつわがまま言っていい? 『生体実験区画』に変な器具あったじゃん。あれってさ、同じ材料で強酸性の薬品が作れるみたいなんだよね」

「それが欲しいんですか?」

「コヨーテ、あの岩場にあった門の鉄格子おぼえてるでしょ? あの硬化魔法ゴリゴリのやつ」

「まさか薬品で溶かせるのか?」

「マニュアルの記載が正しければ、だけどね」

 コヨーテも最後に残されたあの門の先に興味はあった。
 処分できなかったのか、あるいは別の理由か。
 どちらにせよ魔神が残した最後の手がかりではあるはずなのだ。

「やってみる価値はある、か」

「まぁ、結局は『嵐の間』にも『暁の間』にも戻らなきゃならないんだし、手間じゃないわね」

 こうして脱出のための解錠を済ます傍ら、『生体実験区画』に立ち寄って強酸性の薬品を精製したコヨーテとチコは再び浮遊する岩場へと向かうのだった。


To Be Continued...  Next→

『迷宮のアポクリファ』(2/4) 

 翌日、勢いのある雨音にうんざりした様子で、コヨーテは曇天を恨めしそうに睨んだ。
 昨日の午後から降り始めた雨は夜が明けても降り続けていた。
 コヨーテのように半吸血鬼でなくとも、こんな雨の中でわざわざ外出しようなどと思う人間はいないだろう。
 冒険者のようにある意味では仕事を選べる人種であるならなおさらだ。

「この分だと、今日も依頼に出る目はなしかな……」

 などと考えながら、コヨーテは自室を出て階下へ降りていった。
 いつもの席に腰を掛け、酒場を見渡す。
 昨日よりも遅い時間だ。
 仲間たちもそれぞれ朝食を摂ったり窓の外の天気を窺ったりしている。

「おはようございます、コヨーテ。今日も雨ですよ」

「おはよう。そうみたいだな」

 挨拶を交わし、コヨーテはカウンターへ向かう。
 カウンターの向こうでは宿の亭主が忙しなく動き、朝食時の注文を捌いている。
 そんな中で話しかけるのは心苦しいが、おそらくは彼が最も情報を持っているに違いない。

「バリーを知らないか?」

「わしはまだ見ておらんが……」

「あ、バリーさんでしたら朝早くに戻ってきて、また出かけるからってパンの包みだけ持ってまた出ていきましたよ?」

「……、昨日は戻っていなかったのか」

 やはりか、とコヨーテは怪訝な表情を見せる。

「確かに夕食どきも見なかったが……おいコヨーテどうした。顔が険しくなってるぞ」

「そうですよ。なんか、娘が夜遊びしていたのを知ったお父さん! みたいな顔で怖いですよ」

「どんな喩えだ……なんでもないよ」

 適当にあしらって、コヨーテは仲間たちが集まるテーブルへと移動した。
 ちょうど依頼の貼り紙を吟味してきたらしいルナと合流したが、彼女の表情は明るくない。
 やはり、あれからまともな依頼はなかったようだ。

「そういえば、昨日バリーは仕事を探しに行ったのですか?」

「いや、違う。おそらく……」

 コヨーテは仲間たちに昨日の話を伝えた。
 多分に第六感が入り込んだ部分は話さなかったものの、やはり皆も少しおかしいとは感じたらしい。

「……そんなに気にするようなものだったのでしょうか、あれは」

「分からない。だが、よほどにご執心の様子だからな」

 とはいえバリーの書物狂いは今に始まった事じゃない。
 取り立てて目立った異常がない今、これ以上議論する事もなくなった。
 ともかくバリーの帰りを待って事情を詳しく聞くしかない。

「あーもう、雨止まないねー」

「依頼でもないのに雨の中を歩きたくはないよね。でもあんまりこういう日が続くと財布の中身が心配になってくるよ」

「そうなりゃもう酒場で演奏でもして聴衆から銀貨を稼ぐくらいしか思いつかないわね……で、チコ。あんたはどうしてリュートなんかを持ち出してきたの」

「出番が来たかな、と。てへへ、最近いろいろやってんだー!」

 かつてないドヤ顔を見せつつ、チコはリュートを抱える。

「リュートの弾き語りなんてできるのか?」

「もち! サーガだって自作したしー!」

「本気か」

「まーじまじ!」

「……神に誓って期待していませんが、ちょっと歌ってみせてくれますか」

「よっしゃ、リクエストいただきましたー!」

 張り切って、チコはリュートを奏で始めた。
 たどたどしい手つきで始まった演奏は、しかしそれなりに練習したであろう事が覗える出来ではあった。
 しかし、肝心のサーガのほうはと言うと。

「チコ……なんだその『呪われし英雄ミリアのサーガ』って」

「えーと、細かい設定は別にあるんだけどー、このサーガでは――」

「設定とかは聞いていません。どうして私たちの実名がそのまま出ているんですか」

 こうしてチコは仲間たちから自作のサーガの不明瞭な点について、極めて厳しい追及を受けた。
 唯一評価されたのはコヨーテが半吸血鬼である事を明かさなかったその一点だけである。

「まったくと言っていいほどフィクションの要素しかない……」

「そ、そんな事ないもん! ちょっと魔族の血を引いてて、いい感じの秘儀を使いこなし、最後には竜殺しになったりするだけ!」

 日頃の行いがそうさせるのか、チコの抗議は『月歌を紡ぐ者たち』の誰にも受け入れられる事はなかった。

「まぁ、演奏は良かっただろう。それにサーガも自作となればすごいとは思うが」

「わぁーん、そう言ってくれるのはコヨーテだけだよー!」

「……コヨーテはちょっとチコに甘すぎなのでは?」

「そう言うなって。多方面に興味を持つのは悪い事じゃない。特にチコはまだ若いんだし、無限の可能性が眠っているかもしれないんだから」

 チコが幼少期に負ったトラウマは彼女の成長を酷く阻害していた。
 未来への展望が一切なく、今の技術を磨く事はあっても新しい何かに挑戦する事は少なかった。
 だからこそ、これらはいい傾向だとコヨーテは感じている。

「『この物語はフィクションです。実在の人物、宿などとは一切関係ありません』って書いとくのはどうかなー?」

「まだ言ってんのあんた……ん? チコ何か落としたわよ」

「あっ」

 彼女が落としたのは羊皮紙の束だ。
 しかしその表紙には『創作ノート(部外秘)』とでかでかと書かれており、更にはミリアが拾うほうが早かったのが悲劇だった。

「っあああああああああああああああああああ!!!!!」

 本来、チコが個人として楽しむなどの他は公開される予定がなかった創作ノートがよりにもよってミリアの手に渡った事により、『月歌を紡ぐ者たち』の創作環境は厳しい冬の時代を迎えた。
 若気の至りとは恐ろしい。

「おとりこみ中もうしわけない。私のリュート返してねチコちゃん」

 そこへ『星を追う者たち』の吟遊詩人ターニャが現れ、さっさとリュートを持ち去ってしまった。
 さすがにチコが個人的な趣味で即座にリュートを用意できるはずがなく、本職の彼女に借りていたものらしい。

「うおおおおおお……!!」

 最後の望みである楽器すらも失ったチコは膝から崩れ落ちる。
 こうして『月歌を紡ぐ者たち』から表現の自由は失われてしまった。
 その後チコは片付けが終わらないからと宿の娘アンナに酒場の片隅に追いやられ、以上で茶番は終了である。

「アンナ、バリーがどこに出かけて行ったか分かるか?」

「確か治安隊詰所だったかと。バリーさん、転職するんですか?」

「それはないと思うが……ともかく、ありがとう。オレも少し出かけてくる」

 いつもの黒い外套を羽織り、フードを被ったコヨーテは雨の降りしきるリューン市内へ足を踏み出した。
 治安隊の詰所はそう遠くない。
 とはいえ雨脚も弱くはないので外套だけでは防げないのだが、そこはモーガンの踏み倒しが効いているのか、まったく消耗を感じない。
 ともすれば不気味にさえ思えるが、これが正常なのだと無理やり自分を納得させた。

 治安隊詰所に着くと、先の依頼で顔見知りとなった隊長を訪ねた。
 一昨日の仕事でコヨーテの顔は知れていたようで、すんなりと通された。

「――ん? 『月歌を紡ぐ者たち』の……たしか」

 依頼を請ける際に自己紹介は済ませたはずだが、コヨーテはもう一度名乗った。

「そうだった。一昨日はご苦労だったな。何かあったのか?」

「昨日と今日、うちの仲間がここに来なかったかと」

「ああ、来たよ。囚人に面会したいというから、部下の立ち合いの下で話させた」

「囚人に、面会――?」

 よくない予感が当たっている。
 バリーは経典の謎を解き明かして情報を流すために治安隊に行ったのではない。
 むしろその逆、謎を解き明かすピースを得るためにここへ足を運んだのだ。

 コヨーテもまた件の囚人に面会を希望すると、意外とすんなりと通った。
 隊長自らが牢獄まで案内してくれた。
 丸一日経過しているのに尋問がうまく進んでいないのだろうか。
 あるいは以前のバルムスが起こした不祥事の件が効いているのか。

「おい、面会者だ。千客万来だな」

 薄暗い牢獄にはバリーの姿はなく、口数の少ない陰気な牢番が一人だけしかいない。
 入れ違いになったのかもしれないなと、と治安隊隊長が呟いた。

「あまり長時間はいかんが、訊きたい事があるなら話せ。存外口が堅くてな。係の者も手こずっているようだから、お前に何か漏らすようなら儲けものだ」

 隊長の後半の言葉は囁きに近かった。
 帰りは牢番に声をかけろ、とだけ残して隊長は去っていく。
 牢番の小柄な男は彫像のように微動だにせず壁際に控えている。

「貴方は、あの時の――」

 牢に沈殿した闇の中、青い服を身に着けた女司祭は人の気配に顔を上げた。
 女司祭を前にして内面を顔に出さないよう、コヨーテは考えを巡らせる。
 バリーがここに調査に来たのは間違いない。
 この女司祭こそがあの書物について多くを知っている可能性は高いのだから。
 だが、この司祭は危険だ。
 慎重に、慎重に交渉しなければ確実にバリーに害が及ぶだろう。

 この女から、どれくらいの情報を引き出すべきなのか?
 禁断の果実を手にして、自分たちに得るものはあるのか?
 なんだってコヨーテは何の考えもまとめずにここに立っているのか?

「冒険者様」

 コヨーテの内心を知ってか知らずか、女司祭は静かに呼びかけてきた。

「命乞いをする気はありませんが、冒険者様と、あのお仲間の方なら……わたくしの話を聞いていただけるのでは、と思うのです」

「どうしてそう思う」

「あの方は仰っていました。冒険の中、何度も死ぬような思いをした、と。視線を潜り、何度も生きる意味を考えた人になら、教団の教えに真実がある事を分かって頂けると――」

「――オレは空色教団に真実があるとは思わない」

 きっぱりと否定した。
 伝え聞く所業の数々を思い返せば共感の余地はなかった。

「……それは冒険者様が外側しか見ておられないからです」

 だのに、女司祭は構わず話を続ける。

「外側? ……どういう意味だ」

「人々は教団を邪悪と言う。では、おのれの所業を全て自分の意思で為し、受け入れているものなどいるでしょうか?」

 半分はヒトならざる者の血が入っているコヨーテにとってはとても答えられるものではない。
 ことさら吸血鬼という種は運命に翻弄される種族なのだから。

「生まれ、育ち、生き抜くために。人は与えられた役割を演じます。人の言う正義も、その役割のひとつです」

 耳を傾けるな、と思う。

「教団はこう考えています。人は創造主の造り出した入れ物にすぎない」

 狂った世界の言葉は特に独特のリズムを持って正常な心を侵す。

「入れ物である我らが為す事も、創造主が書かれた筋書きの上の事。一つ一つに正邪はない」

「……っ、違う!」

 屋根裏部屋で触れた、あの書物の不気味な手触りがコヨーテの警戒心を呼び戻した。
 顔も知らない創造主が書いた筋書き通りに生きているなど、認めるわけにはいかない。
 コヨーテの吸血鬼としての生を操ろうとする存在に心当たりがあるだけに、コヨーテの心は強く反発した。

「私は――」

 女司祭は囁くように言った。

「遠からず処刑されるでしょう。それに後悔はない。ただ、貴方やあの方のような、真実を見る勇気のある方に一抹でも……教団の想いを伝えたいのです」

「バリーを……! お前の歪んだ世界に引きずり込むな!」

 氷のように冷静であろうと努めたのに、できなかった。
 憤りが心を揺らした。
 
「言葉だけは綺麗で、人を思い通りにしようとする連中をたくさん見てきた。オレたちはもうそんな奴らの思い通りになんかならない……!」

 女司祭の瞳は昏く陰り、コヨーテの言葉に顔を俯かせる。

「それでも。貴方とあの方はもう一度ここへ来るでしょう。それが、創造主の書かれた筋書きなのですから――」

 俯いたままで女司祭は呟いた。
 声音は変わっていないのに表情が見えないだけでやたらとうすら寒い何かを感じる。

「おい、冒険者。時間だ。これ以上の面会は許されない。日を改めろ」

 牢番の声にハッとしたコヨーテはなおも俯き続ける女司祭から目を逸らす。
 そのまま牢獄から出て治安隊の詰所からも離れる。
 篠突く雨が降り続く路地を歩く。

 自分があの女司祭に言った事は真実だろうか?
 自分はバリーの事をどれほど分かっているのだろう。

 経典に没頭し、あの女司祭に会いに行ったバリー。
 『いつもと違う』と感じたバリー。
 いつものバリーと今のバリーと、その境目はどこにあって、自分はそれを見極め切れるのか。

「………………」

 あの女司祭が何を心に秘めていようと、バリーに害が及ぶような事は止めなければならない。
 そう心に決める。
 それを成し遂げるには、どうすればよいか。

「――決まっている」

 仲間が危険に踏み込もうとしているなら、その傍で罠を見張る役目が自分だ。
 どんな罠が潜むか分からない場所であっても誰かの目、耳になる事はできるし、この身体を盾に出来る。
 取るべき道が決まれば、思考は澄み渡り、いつもの調子が戻ってきた。

 鬱陶しくまとわりついてくる雨を押しのけて、コヨーテは宿への帰路を急いだ。



 篠突く雨が煙る中、治安隊の牢獄へ足を踏み入れたバリーは静かに歩を進めていく。
 任務に忠実な牢番の男は壁際に控えて、決して目を離す事無く牢を見張っている。
 しかし、その目は焦点を結ばず、その耳には何の音も届いていない。

「また、来てくださったのですね」

「……気持ちの悪い言い方だな。好きで会いに来たわけじゃねぇ。そろそろ治安隊への面会の言い訳も尽きてきた。あと一回が限界だろォな」

 女司祭は薄く笑った。

「牢番の方も、そろそろ率直なお話をしても問題はありませんわ」

「……、」

「好きでもないわたくしに会いに来てくださる目的――お読みになったのでしょう、経典を」

「ああ。創造主の『入れ物』、自由意志の幻想。真実を受け入れ、得る力……」

「興味がお有りですか。真実の世界に。創造主の筋書きに」

 厚い雲に遮られながらも弱弱しく届く西日が陰影を作った。
 バリーの表情は闇に沈んでいる。
 女司祭の眼は澄んでいて、西日を反射している。

「貴方様に真実をお見せする方法がひとつだけあります」

「ほう?」

「わたくしと空色の教えを信じ――ここから解放してくださいませ」

「そりゃあ不当に高い取引だ。こちらが得るモンが何もねぇ」

 それに、とバリーは背後の壁際に佇む牢番を一瞥した。

「牢の中からこれほどのを使いながら、一人では逃げられませんなんて言うつもりか? ネコかぶりもいい加減にしろ」

「……教えなど……一人では、力弱く儚いものなのです。あのお仲間の方も大層怒っておいででした。あなたを巻き込むな、と――」

 コヨーテか、とすぐにバリーは理解した。
 それからしばらく考え込み、時折石の床に触れて暗闇の中でなぞってみたり、扉に触れてみたりした。

「コヨーテはまっすぐだから死ぬまで……いや、たとえ死んでも是とは言わねぇだろう。誘惑するなら、まだ俺のほうが分があるぜ」

 再び、女司祭はうすく笑った。

「……あんたの名は?」

「それは貴方の願いが叶う時にお教えしましょう――」



 宿に戻ってもバリーの姿はなかった。
 好都合とばかりに彼が屋根裏部屋に残していった経典の翻訳メモを拝借し、自分なりにまとめ、写しを作ってみた。
 専門外の仕事は苦痛でしかなかったがやむを得ない。

 窓の外を見てみると、相変わらずの雨で正確な時刻は分からない。
 しかし夜通しかかってしまった事は間違いなさそうだ。
 寝不足ではあるが休んでいる暇はない。
 一夜漬けでまとめた資料を手に、コヨーテは階段を降りる。

「コヨーテ、おはよ……って、なんかやつれてない?」

「そんな事はない」

 仲間たちは変わらずいつものテーブルを占領している。
 しかしやはりその中にバリーの姿はない。

「親父、バリーを知らないか?」

「屋根裏を片付けて出かけて行ったよ。帰りは遅くなるらしいが」

「そうか……」

「お前さんらは『大いなる日輪亭うち』じゃベテランだからな。言わずもがなだろうが、意見の不一致やら仲違いやら……そういうものは仕事の前に片付けておくんだぞ」

「……んっ? ああ、そっか」

 言われて、バリーの事なのだと気付いた。

「そんなのじゃない。ちょっと入れ込んでて気になっているだけだ」

 ならいいが、と宿の亭主は頷いて、人数分の朝食をテーブルに置いた。
 白パンに炙ったソーセージ、あまりもののスープという無難なラインナップだった。
 腹ごしらえは大事だ。
 コヨーテはひとまず皆と一緒に朝食を頂いた。

「……これを見てほしい。みんなに相談したい事がある」

 食事がひと段落した辺りでコヨーテは本題に入る。
 経典についての資料を広げ、昨日までの出来事を話した。

「これがその経典の一部という事ですか」

「確かに、何か危険な感じがするわね。邪悪な儀式について書いたような……」

「バリーがどういうつもりか知んないけどー、これの解読に必死になる理由がわかんないねー?」

「でも、らしくないですね……治安隊の仕事に首を突っ込んで、しかも私たちにも何も言わず」

 やはり彼女らも伊達に長く同じパーティで冒険していない。
 ここまではコヨーテも同じ思考をしている。
 しかしおよそ一日分の思考時間があるコヨーテは、更にその先に進んでいた。

「……治安隊のためではなく、自分のためですらないのだとしたら?」

「それは……どういう?」

「昨日、チコの話を聞いていて思ったんだ」

「えっ、えっ、えっ!?」

「チコ、話の流れ的にあなたに才能があるって方向じゃないですから動揺しなくていいです」

「いいから座ってな、ほらほら」

 チコは唇を尖らせて不機嫌そうに椅子に座り直す。

「それだけじゃなくて、写しのメモを作っての仮説なんだけどな」

「で?」

「抜くと呪いに支配される魔剣、邪な意思に憑りつかれる宝石……物語によく出てくるだろう?」

「そういえば呪いの道具ならコヨーテも引っかかったよね。で、バリーが持ち帰ったあの経典が呪われた品物だっていうの?」

「オレはそう考えている。人の心を操作するような魔法の品かもしれない」

 あの女司祭と直接会って話した経験がなければ至れなかったかもしれない結論だ。
 思えば彼女の語り口は非常に巧妙で、ともすれば会話だけで掌握されかねないほどの不思議な魔力を持っていた。
 だが、バリーがおかしくなったのは経典を読んでからで、女司祭に会って話をしたのはその後だ。
 強弱はともかく、あの経典に何らかの細工がしてある可能性は大いにある。

「世界にはこの世の法則とは違う文法で書かれた本もあって、そういうのは読み進めていくだけで正気でいられなくなる……と聞いた事もある」

「話を聞いていると、むしろバリーが言い出しそうな説ですね……」

「推測だから裏付けが必要だ。クロエの知り合いに信用できる魔術師がいると聞いている。そして魔法の品にも通じているらしい。その魔術師に助言をもらおうと思う」

 『大いなる日輪亭』で最も他の魔術師と繋がりを持っているのは『陽光を求める者たち』の魔術師にして最年少のクロエである。
 なお宿内で随一の腕を持つ魔術師といえば『星を追う者たち』のレギウスだが、彼はそういった交流をほとんど断っているようだった。

「魔術師の名はバンディッシュ。ただし昼は寝ているらしいから、会えるのは夜だ」

「了解」

 冒険者たちは頷き合った。
 蛇の道は蛇、こういった手合いは専門家に見てもらうのが一番手っ取り早い。
 魔術師バンディッシュへの連絡は夕方からになるため、コヨーテはいったん仮眠を取る事にした。

 そして厚い雲の向こうで陽が沈んだ時分。
 バリーを覗いた『月歌を紡ぐ者たち』は酒場の隅、壁に囲まれ、声が漏れにくいテーブルを選んで魔術師を待った。

「――来た」

 撫でつけたような茶髪が特徴的な長身の男こそが魔術師バンディッシュであった。
 余談だがどことなくバリーに雰囲気が似ている気がする。
 それはともかく、早速バンディッシュを二階の屋根裏部屋に案内した。

「うーん、想像以上にむさくるしい場所だ」

 最初はかなり面倒そうな顔をしていたバンディッシュは、コヨーテから事情を聴き経典の写しに目を通すうちに何かに心惹かれた様子で、実物の経典を見せてほしいと言った。
 かくして、この魔術師は『大いなる日輪亭』まで押しかけて来たわけである。

「バリー……やはりまだ帰っていないんだな」

 魔術師バンディッシュは顎に手を当てて、何かを思索するように辺りを見回す。
 そしてテーブルの上に放置された経典を見つけ、それを手に取った。

「それが話して聞かせた問題の本だ」

 冒険者たちが見守る中、バンディッシュは経典を持ち上げたり明かりにかざしてみたり、注意深く指で触れてみたりした。
 その後、ほうほうだとかなるほどだとか独りごちながら、胸ポケットから鋳掛眼鏡を取り出す。

「ああ、ちょっと本を開いて持っていてくれ」

「は、はい」

 経典をルナに持たせて、おもむろに中身を検分し始めた。
 ややあって鋳掛眼鏡を仕舞いこむと、彼は小さく肩から力を抜く。

「何か分かったか?」

「――しっ、息を吹きかけないように」

 ルナに経典を閉じさせて、バンディッシュは顎に手を当てて唸った。

「驚いた。君たちの言う通り、これは強力な魔法の品だよ」

「それだけでどういうものなのか分かるの?」

 魔術師バンディッシュはしばらく考えていた。
 魔術の門外漢に、どう説明すればいいか言葉を選んでいる様子だ。

「……噛み砕いて言えばこの本には魔法で空間が括り付けられている。引き出しに様々なものを隠すように、この本には……そうだな。大きな城ひとつ分ほどの魔法的な空間が封じ込められているのだ。まさに、本の中に作られた牢獄だよ!」

「城一つが本の中に……そんなこと――」

 ハッとして、ルナは口を噤んだ。
 有り得ないとでも言いかけたのだろうが、それとよく似た魔具をすでにコヨーテが手にしている事を思い出したのだろう。
 現実味が薄くて絶句したと思ったのか、バンディッシュは言葉を重ねる。

「古い魔法は時に想像を絶するのだ。わたしの専門分野だから間違いはない……さて、さらに興味深いのは君たちが唱えていた説。この本に人を操るような効果があるか……結論から言うと、分からないな。だが、本の中の空間には大きな魔力を感じる。真相を知りたいのなら、これをわたしに預けてくれれば三日ほどで完全解明してみせよう。あるいは――」

 バンディッシュは経典を指し、

「この書物の中に入り込んで調査する以外にないだろうね」

「そんな事ができるのか?」

「もちろんだとも。言わなかったか? この辺はわたしの得意分野なのだ」

 ふん、とバンディッシュはドヤ顔を決める。

「さて、珍しいものを見せてもらったから出張料はサービスしておくが、どうする冒険者? この本の中の世界に入ってみるかね?」

 『月歌を紡ぐ者たち』は顔を見合わせた。
 予想外の展開ではあったが、想像以上の手がかりだ。
 しかし専門の魔術師が外からではこれ以上の情報が得られないと断言するのであれば行くしかない。
 虎穴に入らざれば虎子を得ず、というやつだ。

「分かった。中を調べてみたい。どうすればいい?」

「単純な魔法で入り口は開ける。君たちを送り込むのも簡単だ」

「……出る方法は?」

「そこは君らで探してもらうほかないな。何しろ外側からじゃ内側を覗けないのだから」

「待ってよ、それじゃあ魔術師抜きで魔術の迷宮に挑戦するの? それはいくらなんでも無謀じゃない?」

 レンツォの言う事ももっともである。
 かくなる上はレギウスかクロエに協力を仰ぐべきか、とコヨーテは思い至ったが、彼らはどちらも外出しているため帰りを待たねばならない。
 そうこうしている内にバリーが手遅れになってしまっては仕方がない。

「ん? 魔術師ならそこに居るだろう」

 なのだが、しれっとバンディッシュはチコを指して言ってのけた。
 突然指名されたチコはというと、表情を強張らせて汗を流し始めている。

「……は? いや、何かの間違いでしょ。そいつは狩人だよ、魔術とかはド素人の」

「そんな事はないはずだ。事実、クロエ嬢から聞いた話だ」

「い、いや……え? マジ? マジなのチコ?」

「えーっと……、クロちゃんなんでばらしちゃうかなぁー……」

 観念した風にチコは肯定した。

「嘘だろ!? いつの間に!? ってか教団の本拠地で魔術書読んでたのって……まさか!?」

「だから最近いろいろやってるって言ってたでしょー。正しくは五月祭の後くらいからだけどさー、みっちり勉強してー、クロちゃんやレギウスにも手伝ってもらっててさー、ちょっとしたサプライズのつもりだったんだよーーー!」

 図らずも最悪の形で成果をバラされたチコであった。

「腕前を見ていないからオレは判断できないな……チコ、いけるか?」

「あーもう! だいじょーぶ! バリーの代わりくらいやってやるよぉー!」

「そこはかとなく……いや、明確に不安なんだけど。いくら二ヶ月間勉強したって言っても知識量が足りないでしょ」

「別に問題ないだろう。さっきも言ったがこいつは『牢獄』なのだ。そこに自由に歩き回れる人間が五名もぞろぞろ入り込むなんて想定されていないはずだ」

 専門家バンディッシュが言うのなら間違いはない、のだろう。
 内側を窺えないとは言っているが、牢獄の性質についての知識はやはり大したものだ。

「まー、実は『真紅のリボン』についてもレギウスから理論は聞いてたから、に関してはたぶんバリーよりちょっと詳しいっていうか」

「なんだ、それなら迷う必要はないじゃないか」

 少なくとも現状ではチコほど本の中の牢獄に向くメンバーはいないだろう。
 事は一刻を争う状況で、これ以上は望めるべくもない。

「決まったか。ではこの本の上に手を置いて、呼吸を楽にするんだ」

 言葉通りに全員でテーブルを囲むようにして経典の上に手を重ねる。
 二度三度と呼吸をするうちにバンディッシュのカウントダウンが始まり、やがて視界は闇に閉ざされた。


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周摩

Author:周摩
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