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リプレイ記:月歌を紡ぐ者たちの記事一覧

『ガラス瓶の向こう』(1/3) 

「………………」

 さざなみに似た音が聞こえる。
 寄せては引き、引いては寄せる。
 まるで、一度手から離れた物は二度と取り戻せないと告げるように。

(何も、見えない……)

 ルナは不思議な浮遊感に身を委ねていた。
 暗く、冷たい空間に一人きり。

 そういえば、誰かが一緒にいたような気がする。
 その誰かを探すべく身体を動かそうとしたが、それも無駄な事だった。

(動かない……!?)

 じわりと押し寄せる恐怖に声を出そうとしても、蝶の羽音すらも声が上がらない。
 身の自由を奪われたその事実がルナの心を凍えさせる。

(どうして……、)

 未知の感覚に押しつぶされそうになる。

(――誰か……!)

 助けを求めるように、声にならない声を上げる。
 身体が動かなくても声が出なくてもルナは抗い、もがき続けた。

「ルナ――!」

 引いて寄せる音の向こう。
 確かにルナを呼ぶ強い声が聞こえてきた。

「……、」

 この時になってようやく、ルナは自分が目を瞑っている事に気がついた。
 強い光を感じて、ゆっくりと瞳を開く。
 朝日の柔らかな光であっても、寝起きであれば眩しく感じるものだ。

「ようやくお目覚めか」

 見知らぬ天井から声のするほうに視線を移すと、そこにはよく見知った顔がこちらを見下ろしていた。
 黒を基調としたコートを着込んだ、くすんだ銀髪と真っ赤な瞳の少年。

「……コヨーテ」

「依頼から帰ってすぐに寝てしまうなんて、よっぽど疲れていたみたいだな」

「……、依頼?」

 そういえば二人で依頼を受けていたはずだったが、どういうわけかすぐにはそれが思い出せなかった。
 眉をひそめるルナの前で、コヨーテは今までに見せた事のないような笑顔で、

「本当に、良かった」

 そう小さく呟き、身を翻す。

「オレは帰りの馬車を見てくる。君はのんびりしているといい」

 ルナが口を開く前に、コヨーテは扉の向こうへと姿を消した。
 やけに素早い行動であったが、ルナはそれを不審がるよりも先に重大な問題に気がつく。

「依頼……?」

 記憶が欠落している。
 まずここがどこであるか、眠りにつく前に何をやっていたのか、それすらもぼんやりとした靄がかかったように思い出せなくなっていた。

「そう、そうです……確か、私とコヨーテは依頼を請けて、それで……」

 記憶を遡っていくのではなく、空いた記憶の向こう岸から辿っていく事にした。
 数日前、『大いなる日輪亭』にて妖魔退治の依頼を引き受けたのだ。
 手の空いている冒険者がコヨーテとルナの二人しかいなかったものの、得た情報を鑑みて二人でも十分だと判断した。

 リューンから馬車で移動し、この街――天蓋都市アンレイン――へ到着した。
 アンレインで拠点としたのは『水面の木葉亭』という小さな宿である。
 そして、ここは借りた部屋だというのは思い出せた。

 だと、いうのに。

「だめ、思い出せない……」

 この街に来てからの記憶が曖昧になっている。
 そんなに疲れているのだろうか。
 だとしても、こんな状況で二度寝できるほどルナもずぼらではない。

 寝台から身を起こすと、手早く白い上着に袖を通し、白いリボンで髪を纏め、コヨーテと揃いのルビーのイヤリングを右耳に着ける。
 身支度に余計な時間をかける事は、もはやベテランの領域に身を置きつつあるルナには有り得ない。
 『大いなる日輪亭』と違って軋まない階段を下りて食堂へと出ると、料理人兼店主の女性がルナを見てにっこりと笑った。

「おやおや、今起きたのかい」

 ルナは丁寧に挨拶を返しつつ、店内を見渡した。
 記憶が曖昧である以上、わずかにでも情報を集めるための行動だったが、店主はそうは受け取らなかった様子で、

なら門まで馬車を見に行くって言ってたけど、この様子じゃねぇ……」

「ぶふっ!? ……コホン、何かあったのですか?」

 前半が思い切り崩れたのはもちろん『彼』という言葉に過剰に反応してしまった故である。
 店主はその様子をやれやれと眺めて、

「いや、まぁ、ね……行ってみたほうが納得してもらえると思うよ」

 そう言って店主は宿の出入り口を顎で示した。
 日が昇りきっているとはいえ、まだまだ仕事が残っているのだろう。
 冒険者になって一時期を宿屋で働いて過ごしていたルナは弁えて、足早に宿を出て門へと向かう。

 門から近い宿を取っていただけあって、そこへはすぐに辿り着けた。
 そこに黒いコートの少年を見つけ、名を呼んで傍まで駆け寄る。
 こちらに気づいて振り返ったコヨーテはいつも通りの静かな表情を浮かべている。

「ああ、もう来たのか。ゆっくりしていて良かったのに」

「いえ、そんな事より、これは……」

 ルナが指差した門の向こうは乳白色の霧が立ち込めていて何も見えない。
 まるで何も描かれていないカンバスのように真っ白だ。

「どうにも、霧がいつになく深く出てしまって馬車が出せないそうだ」

「霧が……」

 アンレインと外部とを分かつこの門の正式名称は『霧断ちの門』というらしい。
 それを鑑みれば、この街の近くはこういった霧が出る事は珍しくないのだろう。
 何にせよ、これでは帰れない。

「霧が晴れるのを待つしかありませんね」

 コヨーテは「そうだな」と相槌を打ってから、

「……辛くなるだけなのにな」

 そう笑って、ルナの肩を叩いた。
 長い前髪が邪魔でその表情は見えなかったが、彼は本当に笑っていたのだろうか。

「宿に戻ろう。一人で歩けるか?」

「う、うん……」

 思わず、返事を詰まらせてしまった。
 ルナの心臓が激しく鼓動する。

 ――様子が変だ。

 何か大変な事が起きている。
 そう感じてはいたが穏やかなコヨーテの顔を見ると何も言い出せなかった。



 時間が空いてしまった。
 件の濃霧はちょっとやそっとでは晴れないだろう。
 その間、どうにかして時間を潰す必要がある。
 結局、見知らぬ土地での時間潰しといえば観光ぐらいしかない。

 が、

「少し疲れたから、オレは部屋で休んでいるよ」

 ルナが眠っている間に何をしたのかは知る由もないが、まだ昼前である。
 門から宿までの移動で疲れて休むというのは、やはりいつものコヨーテらしくない。
 しかし、だからといって追求したり無理やり付き合わせる事はできない。
 そんなものは水掛け論にしかならないのだ。

「いってらっしゃい」

 コヨーテの笑顔に、どこか不安定さが見え隠れしている。
 門で気づいてからずっと、こういう小さな違和感をいくつも覚える。
 これも、結局はそう感じただけに過ぎない。

「……行ってきます」

 こうまで気乗りしない観光というのも珍しい気がする。
 濃霧の影響で無理やりに暇を潰しているのだから仕方がないのかもしれないが。
 特にやりたい事もなく、人の流れに乗るようにしてアンレインの中央広場までやって来た。

「……、」

 欠けた記憶。
 様子のおかしいコヨーテ。
 拭えない暗い不安。

 ――何かが、壊れそうになっている。

 漠然とした、しかし信頼できる、自分の冒険者としての勘。
 このままでは取り返しがつかない事になる、という確信めいた焦り。
 観光なんてしている場合ではない。
 何かが始まる前に――否、何かが終わってしまう前に――動かなければ。

 ルナは拳を強く握り締めた。
 再び記憶を辿り、まるで霧を払うように欠落した部分を探っていく。
 そうしている内にまるで何かに導かれるようにルナの足は動き、一軒の屋敷へと辿り着いた。

 この家の前に立った瞬間、ここを二人で訪ねたという記憶が鮮明に蘇る。


「――墓場に巣食うアラクネ、ですか?」

 豪奢な応接室だった。
 『大いなる日輪亭』では触れる事すらなかったほどに柔らかな感触を返してくるソファに、コヨーテとルナは座っている。
 その向かいにはひと目でこの屋敷の主と判別できるほどに立派な装いの男女が座っており、依頼の内容を反芻したルナの言葉に眉根を寄せて反応したのは女性のほうだった。

「人の上半身に蜘蛛の身体――噂には聞いておりましたが恐ろしい化け物ですわ」

「退治の依頼、という事で間違いありませんか」

「ええ、あんなものさっさとこの街から消してしまわなければ」

 依頼人の女性は未だに眉根を寄せたまま、次第に語気が強くなっていく。
 そんな興奮気味の女性を宥めたのは、隣の物腰柔らかそうな男性だった。
 彼らは夫婦なのだそうだが、初見の感想は良くも悪くも正反対の二人、であった。

「まあまあ、落ち着いて。そんなに興奮すると身体に悪いよ」

「もともと余所者である貴方には分からないでしょうけど。この街の素晴らしさを汚すような存在なんて即刻消してしまわなければいけないのよ」

 フン、と鼻を鳴らす奥さんと、苦笑いを浮かべる旦那さん。
 見事なまでに尻に敷かれている様子だった。

「ああっ! 自警団があんなに役立たずだったなんて……早急に改革を申し入れなければ!」

 苛立ちが最高潮にまで達した奥さんは、金切り声で喚く。
 こうも情緒不安定に喚かれては会話も何もあったものじゃない。
 気まずい沈黙が落ちる。

「……あの、」

「まだ何か?」

 じろり、と射殺すような鋭い視線をぶつけられてルナは息を呑んだ。
 完全に出鼻をくじかれてしまい、続く言葉が出てこない。
 そんな様子を見かねたのか、旦那さんのほうから助け舟が出される。

「君、報酬の話がまだだよ」

「ああ、そうね、そんな話もしなければならないのね。これだから冒険者は……」

 不機嫌な表情で奥さんは呆れたようにため息をつく。
 その言動にさすがのルナも眉を平坦にせざるを得ない。
 それを察したのか、隣にいるコヨーテの手がそっとルナの手に触れた。

「……、」

 抑えろ、という事だろうか。
 そんなに腹を立てたつもりもなかったが、コヨーテの手が触れているというだけでそれどころではなくなる。
 少し、顔が熱かった。

「報酬は完全成功のみ。つまり討伐できた場合のみ銀貨一〇〇〇枚を支払うわ」

「十分です」

「じゃ、さっさと行ってきて頂戴!」

 再び騒がれてはたまらないと、半ば追い出されるように二人は屋敷を後にした。

「……あの態度はあんまりですね。旦那さんも大変そうです」

「アンレインが資産家の街だとは聞いていたが、想像以上の高慢さだったな」

 半ば独り言のような言葉に、コヨーテが苦笑混じりに返してきた。
 決して良いとは言えない依頼人に当たった事を笑い話にできないようでは冒険者なんてやっていられない。
 ルナは先ほどの苛立ちを恥じた。

「……場所は墓場でしたね。準備はいいですか?」

「ああ、手早く終わらせてしまおう――」


 確か、そんな会話だったはずだ。
 しかしその先がどうしても思い出せない。
 何か少しでも情報が得られればと、ルナは依頼人の屋敷のベルを鳴らす。
 ドアを開いて顔を出したのは、記憶にもあった依頼人の男性だ。

「ああ、君は……」

「突然お伺いして申し訳ありません」

「いやいや、なかなか取りに来ないんで心配していたところだったんだ。ちょっと待ってて」

 そう言うと、男性は踵を返したと思うと、すぐに戻ってきてルナに銀貨の詰まった袋を差し出した。

「……これは?」

「報酬だよ。取りに来ないからどうしようと思っていたところだったんだ」

「……、」

「そういえば、大怪我したって聞いたんだけど大丈夫だったのかい?」

「!? 怪我を……、私が?」

「ああ、噂になってたけど……?」

 報酬の受け取りを忘れてしまうなんてどうかしている。
 一緒に依頼を請けていたコヨーテも忘れていたのだとすれば、やはり何かがあったのだ。
 だが、ルナの怪我がコヨーテにどんな影響をもたらしたというのか。

「……すみません、ちょっと記憶が曖昧で」

「そうか……それはきっと大変だったんだろうね。君のお連れさんにもお疲れ様と伝えてください」

「はい、ありがとうございます……」

 依頼人の屋敷を後にしたルナは、さらに深まってしまった謎に思わずため息をついた。
 怪我をしたと言われても、ルナの身体には痛みはないしそれらしい傷もない。

 だが、別の収穫はあった。
 怪我が噂になったという事は、アラクネとの戦いで尋常でない何かが起こったという事だ。

 ルナの足は件の戦いのあった墓場へと向いていた。
 依頼人の屋敷から墓場まではそう遠くない。

「……っ、」

 足を踏み入れてすぐに分かる。
 ここで確かに戦闘があったのだと物語るような、濃密な血の臭い。
 戦いから幾日か経っているはずなのに、未だに不快なそれが色濃く残っている。

「……おまえ。ぶじ、だったんだな」

 のそり、と木陰から姿を現したのは犬頭の獣人だった。
 反射的に身構えようとするのを何とか押しとどめる。
 この獣人は、敵ではない。

「あっ……」

 まるで稲妻が走ったように、ルナの記憶が光を発した。
 一筋の閃光がもやを振り払うように、墓場での出来事を鮮明に思い出させる。


「――街の中と違って質素な墓場だな」

「大方、ここまでお金が回らないのでしょう。あるいは、死後には興味がないのかもしれません」

「かも、な……ん?」

 湿った土を踏みしめる音がかすかに聞こえ、コヨーテは足を止める。
 音のした方向へ振り向いてみれば、犬頭の獣人がこちらへと歩み寄ってきていた。

「……おまえたち。ここ、きけん」

「妖魔、か?」

「ちがう。おれ、はかもり。ここの、かんりにん」

 墓守。
 コヨーテらとて人の姿を取らない存在と関わった事は両手の指じゃ収まらない。
 世界のどこかには犬頭の獣人が墓の管理を任される事だってあるかもしれない。
 あまり深く考えないほうがよさそうだ。

「私たちはアラクネ退治を任された者です」

「……ん、ぼうけんしゃ。ありがたい。たすかる」

 獣人の墓守はわずかにも表情を変えずに――そう見えているだけで実は変化しているのかもしれないが――墓場の奥を向いて、

「あいつ、このおく。ねてる。ひるま。でも、すぐきづく。よれない。ぼうけんしゃ。つよいか」

「ええ、すっごく」

 ね、とコヨーテのほうへ笑顔を向けるルナ。
 少しだけ驚いたような表情を作ったコヨーテは、すぐにそっぽを向いて鼻の頭を掻く。
 気恥ずかしいだとか、照れるだとか、そんな時にする彼の癖だった。

「……勝算がなければこんなところまで来たりはしないさ。忠告、感謝する」

「ん。きをつけろ。おまえたち、おれ、うめたくない」

 獣人の墓守は二人に会釈をしてその場を立ち去った。
 その背を見送って、コヨーテは銀の髪を纏めている『真紅のリボン』から【レーヴァティン】を具現化する。

「行こう」

 コヨーテは【レーヴァティン】を片手で担ぎ、墓場の奥を睨めつける。
 墓場の湿っぽい雰囲気を演出するような生ぬるい風が木々を揺らす中、コヨーテとルナは粛々と歩き続ける。

 やがて空も曇り始め重苦しさを増す墓場の最奥に、『それ』はいた。
 くすみきった緑と灰色がかった墓場に似つかわしい、灰みがかった白。
 そして、あまりにも禍々しく無機質だ。

 陰鬱な墓場の木々の下。
 そこに鎮座している大蜘蛛は静かに、まるで死んでいるかのように生命を感じさせない。
 しかし、ルナは気づく。

 その硬質な腹部から生える女を模した頭部、その瞳はしっかりとこちらを見つめている事に。

「こいつは……!」

 コヨーテが声を荒げるのも無理はない。
 『それ』が纏う、ねっとりとした悪意。

 アラクネ。
 旧き物語に伝えられる神の怒りを受けた美女。
 その名を冠する魔物としては、『それ』はあまりにも禍々しすぎた。

「くっ……!」

 自然と表情が険しくなる。
 こんなモノが、なぜこの街に。

 しゃきん、しゃきん、と。
 アラクネの八本脚が擦りあう度に硬質な刃物じみた音が響く。
 まるで威嚇か、あるいは舌なめずりのような嫌な音だ。

「ルナ、援護頼む」

 厄介そうな相手だと愚痴をこぼす間もなく、コヨーテは【レーヴァティン】を構えて走り出した。



(――そう、確かに戦った)

 死闘と言って差し支えないほどに激しい戦いだった、はずだ。
 コヨーテもアラクネも目にも留まらないほどの素早さで剣戟を交わしていたのだから、素人のルナでは状況を把握するのが難しかった。
 数十合打ち合った末、コヨーテはアラクネの脚を数本斬り飛ばし、黒翼で威力を底上げした【既殺の剣】で外殻に穿ったわずかな穴から黒狼を撃ち込み、柔らかい内側から食い破らせていた。
 どす黒い血が噴水のように吹き出て周囲を赤黒く染めた光景は思い出した事を後悔するほどだ。 

 しかし、それでも大怪我と表現するほどの怪我を負った覚えはない。

「だいじょうぶか」

「え、ええ。大丈夫、です……」

「しんぱい、してた。おまえ。ぐったり。あせる」

「私が怪我をしたのは間違いないのですか」

 獣人の墓守は不思議そうに首を傾げた後、確かに頷いた。

「ん。でも、よかった。おまえ、げんきそう。うれしい」

「……、」

 だとすれば、どうして今は傷がないのだろうか。
 半吸血鬼のコヨーテならともかく、ルナは取り立てて際立つところのないひ弱な人間である。
 自力での治癒は望めなかっただろう。

(だとすれば、きっとコヨーテが……)

 助けてくれたのだろう。

(――でも、どうやって?)

 嫌な予感がした。
 コヨーテは誰かのために身を削る人だ。
 もしかしたら、また五月祭や聖堂襲撃事件の時のように無茶をしたのかもしれない。

 獣人の墓守に別れを告げると、ルナは細い路地を歩きながら右の耳に触れた。
 正確には右耳にのみ飾られたルビーのイヤリング。
 『空間を超える魔法』をかけられた品であり、もう片方のイヤリングと声を繋げる事ができる。
 イヤリングの片割れは、コヨーテの左耳にある。
 七月七日、コヨーテの誕生日に巻き込まれた聖堂襲撃事件でその効力は実証済みだ。

「コ、コヨーテ……聞こえますか?」

 何も知らない周囲から見れば独り言に見えているだろう。
 その為に細い路地を選んだのだが、やはり少し気恥ずかしい。

「……コヨーテ?」

 返事がない。
 そういえば疲れたから休むと言っていたはずだ。
 となればイヤリングは左耳から外されているだろう。

(……直接聞いたほうがいいですね)

 細い路地から大通りに出て、ルナはまっすぐに宿へと戻る。
 あちこち歩いた割にはそう時間は経っていなかったが、正午過ぎということもあってやたらと人が多かった。
 忙しそうに店内を駆け回る店主の姿を横目に、ルナは階段を昇っていく。

「コヨーテ……、眠っていますか?」

 部屋に入ると、ベッドで横になっているコヨーテの姿があった。
 その声に反応するように、コヨーテは目を開いてその身を起こす。

「……え?」

 ルナは身を強張らせる。
 今朝別れる前のコヨーテとは更に違った様子だった。
 ゆらり、と立ち上がった彼の瞳は虚ろなままに、無遠慮にルナに接近する。

「コヨーテ!? 痛っ……!」

 咄嗟に避けようとするルナの細腕をコヨーテの腕が掴む。
 思いがけず、強い力で。

「うあっ……!?」

 予想外の行動に驚愕したルナは足を縺れさせ、近くにイスに引っ掛けて倒れこんだ。
 まるでそれを利用するように、コヨーテはルナの上に乗っかかり、今度はその両腕でルナの首を掴む。
 掴むどころじゃない、まるで押し潰すような遠慮の欠片もない力で絞められている。

「――っあ、やめ、……て……!」

 見慣れた手が。
 共に戦ってきた手が。
 何度となく触れてきた手が。

 今、首にかけられている。

(彼、は――!)

 コヨーテではない。
 コヨーテであっていいはずがない。
 その直感が、ルナの頭を冷やした。
 
「……っ!!」

 ただでさえ半吸血鬼の力を持つコヨーテだ。
 ルナの細い首なんていつ捻じ折れるか分からない。
 だからこそ、行動は迅速に的確にしなければ。

(振りほどかないと……!)

 死ぬわけにはいかない。
 生きなければ、他でもないコヨーテに人を殺させる事になる。
 それだけは阻止しなければならない。
 例えコヨーテにとって非道な事をしようとも。

「っ……!?」

 彼の腕には、ルナが常に携帯している十字架が触れている。
 ただそれだけで半吸血鬼であるコヨーテにとっては火傷するほどの苦痛らしい。
 コヨーテがコートを着ていなかった事も幸いした。
 もし素肌を晒していなければ、十字架を彼の腕に突き立てなければならなかったのだから。

 力が緩んだ隙を突いて、ルナは身をよじって脱出を図る。
 するりと抜け出したルナは、転がった勢いそのままに壁に背中を打ち付けて止まった。
 首を絞められて呼吸もままならない状態で背中を打ったため呼吸が止まるかと思ったが、どうにか持ちこたえられたのは幸いだった。
 激しく咳き込み、荒い呼吸を繰り返して酸素を求める。

「ルナ……オレ、は……」

 ちかちかと瞬く目の前には呆然と座りこむコヨーテの姿があった。
 先ほどとは違って瞳には理性の色を宿し、しかし青ざめて震えている。
 思いのほか簡単に拘束から逃れられたのは彼が理性を取り戻したからだったのかもしれない。

「コヨーテ……」

「――すまない」

 待って、という声すら出なかった。
 ただ唖然とするルナの脇を通り抜けて、コヨーテは扉から外へ走り去っていく。

 首も背中も痛いし苦しいが弱音を吐いてはいられない。
 コヨーテが謝ったという事は、すなわち自分の犯した罪を認めているという事だ。
 彼にとって人間を傷つけるという事の重大さは、ルナは痛いほど知っている。

(見失った……)

 何とか呼吸を整えて急いで跡を追ったものの、宿の周辺にコヨーテの姿は見当たらなかった。
 ともかく、彼を探し出さなければならない。
 何があったのか問いただすためよりも、彼の精神状態のほうが心配だった。

 脳が酸素を求めている中で、ルナは必死に思考を走らせる。
 コヨーテもルナと同じくこの街には来たばかりで、衝動的に駆け出したのだとしても無闇に地理に明るくない場所へは向かわないはずだ。
 二人で立ち寄った場所のどこか、あるいはルナが眠っている間にコヨーテが訪れたであろう場所のどこかだ。

(……と、なれば)

 呼吸を整える暇もなく、ルナは駆け出す。
 人ごみを縫うように走りに走って、たどり着いた目的地にはコヨーテの後姿があった。
 コヨーテは門の傍の詰め所に立つ門番となにやら話し込んでいる。
 声の大きい門番の話によれば、どうやらこの視界を覆う霧が晴れつつあるらしい。

「コヨーテ……」

「――っ!!」

 何故ここに、とでも言いたげにコヨーテは一瞬怯えたような表情を見せた。
 原因は分からないが、コヨーテがルナを傷つけた事実は彼の心を抉ったに違いない。
 となれば次に彼が考えるのは、どうやってルナと距離を取るかに尽きる。
 もし霧が晴れていれば馬車は出るし、もしかしたらそのまま街の外へ、という展開もあったかもしれない。

「あの、何がどうなっているんですか? 私が怪我をしたとか、それが治っているとか、コヨーテの事とか……」

 コヨーテは押し黙ったままだ。
 その視線はルナから逸らされている。

「教えてもらえませんか?」

「……、ルナ」

 長い沈黙の後、コヨーテは目を閉じた。

「何も聞かずに、一人で馬車に乗って『大いなる日輪亭』に帰ってくれないか?」

「――え?」

「頼む……」

 半ばまで予想はしていたはずの言葉だったが、それでもルナは衝撃を受けた。
 疑惑が確信に変わる瞬間である。

「冗談ではありません!」

 コヨーテは何かの事件に巻き込まれたか、あるいは関わっている。
 そのきっかけはおそらくルナが怪我を負って倒れた件と関係しているはずだ。
 先ほど並べた疑問について、何一つ回答がなかった事がそれらを裏付けている。

「辛そうなコヨーテを置いて、何も分からないままでこの街を去るなんて、出来るわけがないでしょう!!」

 気がつけばルナの視界がぼんやりと滲んでいた。
 自分の存在が、またコヨーテを追い詰めていたのだ。
 傷ついてほしくない、苦しんでほしくないと思っているのに結果が伴わない、それが何よりも悔しかった。

「私たち、仲間でしょう……? 違うのですか?」

「………………」

 コヨーテは目を丸くしてルナを見つめた。
 そして不意に表情を崩して、

「そう、だよな……簡単に納得するようなルナじゃないよな」

 少し嬉しそうに目を細めた。
 しかしそれも束の間で、次の瞬きの後には苦しそうに顔を歪める。

「だ、大丈夫ですか?」

「大丈夫、とは言えないな……宿に戻るよ」

 踵を返すコヨーテに、ルナはその袖を掴んで引き止める。

「結局……教えてはもらえないのですね」

「あまりルナに心配ばかりかけられないからな」

 袖を掴むルナの手を優しく解くと、コヨーテは不安げな足取りで帰路についた。
 彼の後姿を眺めるルナは、滲んでいた涙を乱暴に拭い、頬を強く叩く。
 その音で通行人が何事かとこちらへ好奇の視線を向けるが気にしない。

「……ひどいですね。余計心配させるような事を言って、その自覚もないのですから」

 いつもいつも誰かのため、誰かを守るために動いて、ボロボロに傷ついて、見返りなんてなくっても、理解されなくても、それでも笑っている。
 そんなものは多少彼を知っている者なら誰だって知っている事であり、騒ぎ立てるような事じゃない。
 しかし、自分の与り知らないところで自分のために傷つき苦しむというのなら話は違う。

「コヨーテが教えてくれない以上、自分で何とかするしかありませんね」

 もうコヨーテだけに辛い思いはさせたくない。
 コヨーテが彼以外の誰かを守るのなら、誰かが彼を守ってあげなくてはならない。
 それをできるのがルナでないとしても、やらなければ可能性はゼロのままだ。


To Be Continued...  Next→

『迷宮のアポクリファ』(4/4) 

 『嵐の間』と『暁の間』の絵画はすっかり本来の色合いを取り戻した。
 このまま残りの塔にも向かうべく『月歌を紡ぐ者たち』は歩を進める。

 道中、ヒトの身体に魔物の顔を持ち、天使のごとき翼を有した異形の生き物に襲われながらも、すべてを空中回廊から叩き落として踏破した。
 あれらも元々は普通の人間だったのだろう。
 しかし魔神の引いた筋書き通りに肉体を捨てさせられ、天使をおぞましく真似たかのような魔物にさせられたのだとすれば、ただひたすら『月歌を紡ぐ者たち』の逆鱗に触れただけだった。

「……これで良しっと」

 『静謐の間』に掛けられた星空を描いた絵は、深い青と煌めく星の光に満たされた。
 それと同時に、遠くのほうで何か巨大な者が動くような音がした。
 『月歌を紡ぐ者たち』は円陣を組み、しばらく周囲を警戒したが、それきり音は聞こえなくなる。

「北東のほうだったな」

「役割を残した塔は『召喚の間』だけだからね。たぶんそこに橋が渡っているはずー」

 しかしその前に寄る場所がある。
 『虹の間』から繋がる空中回廊、正確には中ほどで崩落している箇所から飛び出して行き着く浮遊する岩場だった。

「さて、岩場に飛んでかなきゃならないんだけど……」

「先に言っておくけど、私は行かないわよ」

「……理由は?」

「私より背の低い男に抱きあげられるのが我慢ならないわ」

「お前何気ない風に言っているが結構傷つくからな?」

 コヨーテは割と真剣マジな風に言った。

「冗談はさておき、コヨーテが橋渡しするにしてもその間の戦力は完全に二分されるわよね。それほど強力じゃないものの面倒な魔物がたくさん溢れてるわけだし、この中じゃ私かコヨーテがいないと危険よ」

「だけど、門の先に踏み込むならチコは必要だよ。おそらくは最重要機密が眠る場所に二人で乗り込むってのも不安だなぁ」

「それならルナも連れてこーよ。アンデッドに強いし。重いだろうけど我慢してねコヨーテ」

「わっ、私そこまで重くありません! ですよねコヨーテ!」

「一般的な人間ならヒト二人も抱えればきついはずなんだが……まぁ、何とかするさ」

 こうして浮遊する岩場に向かうメンバーが決まった。
 コヨーテは自分の首に手を回させて、右腕でルナの脚を支えて不安定なお姫様抱っこのようにして抱きかかえる。
 そして小脇に抱えるように左手でチコを担いだ上で彼女の腰のベルトをしっかりと掴んだ。

「ちょー! ちょっとちょっとコヨーテ! 私の扱い悪くなーい!?」

「一人につき腕一本しか使えないんだから我慢してくれ」

「ずーるーいー! 私ももっかいお姫様抱っこがいいよー!!」

「あわわわわ、ちょっとチコ暴れないでください! 揺らさないでー!」

 そんなこんなでいつものようにぎゃあぎゃあとうるさい『月歌を紡ぐ者たち』であった。
 必要な荷物はすべて真紅のリボンへと格納し、コヨーテは翼をもって空中回廊から羽ばたいた。
 危なげない飛行を終え、三人は浮遊する岩場に着地し、改めてあの門と相対する。

「ほんじゃ行くよー、一応離れててねー」

 そう声をかけて、チコは件の強酸性の薬品を瓶ごと門へ投げつける。
 砕けた瓶から飛び散った魔法の酸は硬化魔法による防御をものともせず、瞬く間に鉄格子を溶かしていく。
 薬品の反応が見られなくなった頃には溶け切らなかった鉄格子もボロボロのグズグズとなっており、【レーヴァティン】の一撃で人が通れるほどの大きさの穴が開いた。

「……何か、いる」

 鉄格子の扉をくぐった先は石造りの通路が続いており、その奥は小さなホールとなっていた。
 その中央には一人の女性――青白く輝く身体と薄ぼんやりとした希薄な存在感から霊体と推測される――が佇んでいる。
 この迷宮で命を落とした人間なのか、魔術師が着るローブを更に古めかしくしたような衣装を身に纏っている。

『……私が愚かだった。ア……クリファを……御せると思っていた……代償が……こん……な……『そう、隷属の儀式を……やり直さねば……いや、だが……わたしの肉体は……喰われて……』

 亡霊に近づいてみても、彼女は何事かを呟き続けるばかりでまったく反応を見せなかった。
 それどころかこちらを認識していないかのように視線すら向けない。

『師の言葉通り……油断すべきではなかった……異界の魔神……相手取る、時は……』

「……完全にダメになっている感じがあるな」

「でもさ、独り言の内容はいかにも重要な何かを知ってる風だし、封印されてたのも相応の理由があるはずだよ。正気に戻せたら何か聞き出せるかも」

「どうやって?」

 問われて初めてチコは頭の中を『?』でいっぱいにした。
 冒険者の間では心が乱れている時は気付けに葡萄酒をというのが一般的だ。
 しかし肉体を持たない亡霊相手にどうやって酒を飲ませるというのか。

「……あっ! あれがありますよ。【歌う貝殻】! リボンの中に入っていませんか?」

「ああ。あれか」

 コヨーテはリボンの中から銀色の貝殻を取り出した。
 【歌う貝殻】と呼ばれるそれは、以前巻き込まれた水精事件の折りに楽師の水精から受け取った道具である。
 封じられているのは聴いた者の心を癒すという魔法の演奏だった。
 貝殻を開くと穏やかな調べが鳴りはじめ、竪琴の旋律がホールを包み込んだ。

『あ――ああ、ァ――』

 旋律の出処を辿るように、亡霊の視線がゆっくりと貝殻へ、それを持つルナ、そしてコヨーテたちへと焦点を結んだ。

『そなた……たちは……?』

「通りすがった冒険者だ。……あんた、大丈夫か?」

『わたし――、わたしは……召喚術師カナーリォ……この迷宮をつくりし……つくり……、し――う、うわあああぁぁぁ!!』

 問われた事で記憶を取り戻すきっかけとなったのか、カナーリォと名乗った亡霊は両手で頭を抱えて叫び出した。

『わ、わたしは喰われた! 魔、魔神! 異界の魔神に!!』

 錯乱して絶叫を続けるカナーリォの言葉は、『暁の間』に囚われていた老人の発言とも合致する。
 彼女こそが異界の魔神を呼び出した張本人であり、またこの『七塔の迷宮』の製作者である召喚術師カナーリォなのだ。

『甘言に耳を貸すべきではなかった! 魔神が偽りしか言わぬのは知っていたはずが――! 全部喰われた! 両の腕も、心の臓も、魔力すら――!!』

 段々とエスカレートしていくカナーリォの絶叫は留まるところを知らない。
 さっきとは別の意味で近寄りがたくなった亡霊に、冒険者たちは思わず一歩後ずさった。

『呪われろ! 異端書物の魔神! 永劫の闇に……還――!』

 恐怖に絶叫した亡霊はひと際大きく喚きたてると、そのまま消え去ってしまった。

「……異端書物の魔神」

「うん。きっとそれだよ。バリーは魔神に魅入られていたんだ」

 魔神が書物に細工したのではなく書物そのものが魔神であったとするならば、あるいはその痕跡を隠し果せるのかもしれない。
 何がバリーの琴線に触れたのかは分からない。
 だが魔神を呼び出した召喚術師カナーリォですら、その甘言に耳を傾けて身を滅ぼした。

「早く戻らないと」

「得るべき情報はすべて得たはずだ。急ごう」

 亡霊が消え去った後、ルナはそこに一振りの剣が残されているのを見つけた。
 カナーリォの遺品だろうか、やけに細身の剣は儀式用のそれに見える。
 さすがのチコも魔具には詳しくないらしく、しかし迷宮脱出に不必要とも断定できないため、コヨーテの真紅のリボンに収納して持ち歩く事にした。

 空中回廊に残ったミリアたちと合流したコヨーテは手早く情報を共有すると、すぐさま脱出への行動を開始した。
 チコの言葉に従い、絵画の仕掛けを解いた際に何かが起こったであろう『召喚の間』に向けて移動する。

「――これは」

 『召喚の間』に辿り着いたコヨーテたちは空を仰いだ。
 最も高い六番目の塔、その中ほどは大きく空に向かって開かれており、『召喚の間』の中央には天から降り注いだ青く輝く光の柱が突き立っていた。

「……ひょっとしてこれが七つ目の塔なんじゃないか?」

「え?」

「だって六つの塔の謎を解いて初めて現れる光の柱だろ?」

「なんかそれっぽい気がするわね。そもそも最初っから七つの塔が見えてたら謎も何もない気がするし」

「っていう事は……解釈を間違った?」

「そ、そっそそそそんなことー! ないんじゃーないかなー!? ほら、壊れた空中回廊とか浮遊する岩場とかあの辺のつじつま合わなくなっちゃうじゃんさーーー!?」

「まぁ、しかしチコの推論も全く外れているという訳でもなさそうだしな」

「そーだよ! 結果オーライだよ! 結果オーライだからもーいいじゃん子の話題は! ハイもーやめやめ!!」

 今回、チコに任されたのはバリーの代わりに迷宮の探索及び脱出の方法を探る事だ。
 当初の目的を鑑みれば、成果は限りなく満点に近い。
 むしろ付け焼刃ながらも迷宮の解析から脱出経路の確保まで成し得た功績は大きい。

「おらー、帰るぞ野郎どもー!!」

 などと叫びつつ、コヨーテの裾を引っ張ったままチコは光の柱に触れた。
 ぐわわわ、と何かが捻じ曲がるような音が響いたかと思うと、世界が暗転する。

「――うわっ!」

 暗転の直後、コヨーテたちは折り重なるように『大いなる日輪亭』の屋根裏部屋に叩き戻された。
 迷宮の入り口が一冊の本であり、あまりに狭すぎたためだろうか。
 真っ先に飛び出たチコが一番下となって潰れたカエル同然の声を上げた。

「お前ら一体どこから出てきやがった……?」

 ふと顔を上げれば、くたびれた風貌の男が一人、いつも以上に眉間に皴を寄せていた。

「おー、バリーおかえり。ねー聞いて聞いて、屋根裏から大冒険!」

「!? お前らまさか――!」

 正しくそのまさかな説明を各々から受け、バリーはこめかみを抑えて軽く呻いた。

「何をとんでもねぇ無茶してんだ」

「いつも止める役がいないんだから仕方ないだろ」

「……、」

「バリー、話がある。あの司祭は、――?」

 バリーはその呼びかけを遮った。

「悪ィが約束がある。出かけなくちゃならねぇ。お前らも一緒に来てくれ」

 テーブルの上に置かれたままの経典を手にして、バリーは背を向ける。
 屋根裏部屋を出る直前、彼は立ち止まり、それからぽつりと言った。

「コヨーテ」

「……?」

「もし、――もし俺が選ぶ道を間違えそうになったら止めてくれるか?」

「……止めないと思うのか?」

 そう言って、コヨーテは不機嫌な表情を露にした。
 対するバリーの表情は差し込む朝日と屋根裏の暗がりが作る陰影でよくわからない。
 いつの間にか夜は明け、新たな一日が始まっていた。

「――行くぜ」

 フルメンバーとなった『月歌を紡ぐ者たち』は屋根裏部屋を、『大いなる日輪亭』を飛び出した。
 向かう先はひとつ、治安隊の詰所である。



 治安隊の詰所に着いた『月歌を紡ぐ者たち』は早朝であるにも関わらず件の隊長に取り次がれた。

「おお、『月歌を紡ぐ者たち』か。実はあれから、囚人が協力的になってな……」

「……それよりも。もう一度あの司祭に会わせてもらいたい」

「何? また、だと……? どういうつもりだ」

 露骨に隊長の表情が変わる。
 その様子からもバリーが幾度となくここを訪れ、司祭との面会を求めたのだと読みとれた。

「見りゃわかる。通してくれ」

 バリーはというと一切気にせず、ずかずかと大股で牢獄へ向かう通路を歩いてゆく。
 隊長は怒声を上げ、その後を追う。
 自然とコヨーテたちもそれを追いかける形となった。

「待てバリー! これ以上の勝手はいくら協力者と言えど許さんぞ! ……ん!?」

 隊長の声を一切無視して、バリーは牢獄の扉を開け放つ。
 そう、本来は厳重に施錠されているはずの扉を、一切の小細工抜きで開け放ったのだ。

「なッ、なんだ……!? 何が起きている――!?」

 全員が驚愕し、黙り込んだ。
 牢を見張るべき牢番たちは皆、子供のように眠りこけて机に伏し、その場は異様な気配に満ちていた。
 例えるなら、肉食獣が獲物に襲い掛かる寸前の静寂のようである。

「……やっと、来て下さったのですね。お二人とも」

 静寂を打ち破ったのは、その場の雰囲気に合致しないほどに穏やかな少女の声。
 空色教団の司祭たる少女だった。

「今日はお返事を聞かせて頂けますか? 空色の教えに、真実に……興味がおありか、否か」

「バリー、聞くな。こいつの正体は――! ッ……!?」

 コヨーテは叫ぶも、その言葉は遮られた。
 ただ気配が迫ってきただけで、物理的な干渉が一切なくとも影響を及ぼした。
 これが魔神の成せる業なのか。

「――あァ、興味があるぜ。空色教団に、その真実の教えになァ」

「バ、リィィィ……ッ!!」

 呻くように声を絞り出すも、蚊の鳴くような声しか出てこない。
 横目で見る限り、他の仲間たちも同じく威圧されている様子だった。

「貴方がわたくしに答えて下されば、お約束しましょう。すべての願いを叶える、大いなる力を。しかるべき代償と引き換えに――!」

 司祭の、否、異端書物の魔神の誘う言葉に、バリーは静かに頷いた。
 バリーが一歩を踏み出す。

「――やめろッ!」

 コヨーテは重圧を跳ね除け、叫んだ。
 バリーと交わした言葉を、取るに足らない口約束として反故にするわけにはいかない。
 彼が選ぶ道を誤りそうになるのなら、それを止めてでも正すのがコヨーテの役目なのだから。

「バリー! そいつは魔神……異端書物の魔神なんだ!!」

「……コヨーテ」

 真実を伝えた。
 コヨーテの声は、確かにバリーに届いた。
 しかし、何も変わらない。
 バリーはただコヨーテの名を呟いただけで、大きな変化は何もなかった。

「さあ、バリー様。わたくしと契約を結び、我が主となられませ――!」

「……、」

「その願い叶えましょう。この『』の名において――!!」

 異端書物の魔神はついに叫んだ。
 勝ちを確信したのだろう。
 事実、バリーはもう一息で完全に魔神の支配下に置かれるような立場にあったのだから。

「ふっ……」

 しかし、

「ふふふ……はは、はっははははは!!」

 ここにきて、バリーは大声で笑いだした。
 まるですべてが計画通りであったのだとでも言いたげな、黒幕のような笑い方で。

「やっと名前を教えてくれたな? 『アポクリファ』、迷宮から逃れた魔神よ」

「……!」

 異端書物の魔神の表情にヒビが入った。
 いかなる場合にあっても冷静な少女の仮面が引きつりつつある。

「バリー……?」

「いいぞコヨーテ、迫真の演技だったぜ。魔神も騙された。さすがはカンタペルメで王子役を張っただけはある」

「い、いや演技じゃなくて……オレは本気で心配して――!」

 コヨーテの言葉を遮るように、バリーは再び魔神へと向き直る。

「――こいつが魔神なのは最初っから気づいてたが、『真名』だけがどうしても分からなかったんだよなァ。それさえ聞きだせりゃあこっちの魔法もとびきり有効に働くってモンだ」

「……。何、を……」

「ハッ、ひとつ冒険者の流儀を教えてやるよ、魔神。欲しいモンを早々に明かしちまうと足許を見られるぜ?」

「……お答えを、バリー。貴方は我と契約する心算がなかったと申されるか?」

「答えてやる。――全くない。最初っからな」

 ビキリ、と少女の表情が歪む。
 それは怒りの表情だ。

「……バリー様。魔神をここまで愚弄して、人の形を保っていられると思わぬことです」

 女司祭の身体は小刻みに震え、不気味な蠢動を始めている。
 ぞわぞわとどす黒い不穏な気配が牢獄からあふれ出さんとしていた。

「お前。全部知っていながら黙っていたのか?」

「あァ、お前が真実を知ると演技が出来ねぇ気がしてな……ッ!?」

 ドゴッ、と鈍い音が炸裂した。
 コヨーテが力いっぱい牢獄の石壁を殴りつけた音である。

「……バリー」

「お、おう」

「後で死ぬほど奢れ」

「ハイ」

 その間にも後方では治安隊隊長とルナたちが眠っていた牢番たちを必死に牢獄の外へと避難させていた。
 衛兵隊を集めるよう指示し、『月歌を紡ぐ者たち』は魔神と相対する。

『許しません! バリー! 迷宮に囚われ、未来永劫、我が慰みものとなりなさい!!』

 異端書物の魔神アポクリファとその周囲の空間が歪み、その姿を変えてゆく。
 アポクリファの両腕は禍々しさを備えた、黒く筋張った異形のものとなった。
 更にはその両の腕が一対、少女の両肩の辺りに漂っている。
 否、ただ漂っているわけではなく、彼女の意思に従って動かされていた。

「……さぁ、来いよアポクリファ!」

 バリーの啖呵に応えたわけではないのだろうが、アポクリファの本来の右手から魔力が迸り、次の瞬間には一条の雷となって放たれる。
 凄まじいスピードで飛来する雷槍は【レーヴァティン】の切っ先を伝い、コヨーテの手元が弾けた。

「ぐッ……!」

 危うく取り落としかけた【レーヴァティン】を握り直し、コヨーテは改めてアポクリファに向き直る。
 そうしている間にもアポクリファの四つの手はまるでピアノを弾くように忙しなく動いている。

「はぁっ!!」

 影から影へと飛び移る【飛影剣】の動きでアポクリファへ急接近したミリアは死角から双剣の一撃を繰り出す。
 ガィィィィン! と、凄まじい金属音が鳴り響き、ミリアの一撃はいつの間にかアポクリファの手元に現れた剣によって阻まれていた。
 その禍々しくも美しい魔力の輝きは魔剣のそれに等しい。

「何こいつ、詠唱なしで魔法使えるの!?」

「違うよミリア! こいつ、してる!」

「――指で印を結んでやがるんだ。独創性オリジナリティが強すぎて読めねぇが……不穏な動きをしていたら気を付けろ!」

 腕は四本、そして本体である魔神は本来の呪文詠唱による魔術の行使も可能だ。
 こうなっては数的有利は無いに等しい。
 火炎と雷撃が交互に繰り出される、悪夢のような連続攻撃が『月歌を紡ぐ者たち』を襲う。
 大雑把な破壊の嵐は冒険者を薙ぎ倒すにとどまらず、牢獄のあちこちを砕き、燃やし、吹き飛ばした。

「――とにかく接近しないと!」

 コヨーテとミリアは魔術による攻撃を捌きつつ、なおも不屈の闘志を燃やして接近を図る。
 再びアポクリファの右手が不気味に動き、何らかの魔術を起動した。
 両手から呼び出された幾本もの魔剣は無機質ながらも意志をもったような動きで二人に飛来する。

「アポカリプス!」

 コヨーテは『真紅のリボン』から【黙示録の剣】を取り出し、左手に構える。
 目には目を、歯には歯を、魔剣には魔剣が相応しい。
 撃ち出された魔剣をこれまた魔剣二刀流で弾いていく。

「行け、ミリア!」

 その隙をついてコヨーテの背後からミリアが飛び出していく。
 わずかな距離ではあるが、アポクリファの指が奏でる印も相当に速い。
 肩に漂う腕が一通りの印を結び終えた後、人差し指がまっすぐにミリアを指し示した。

『――ッ!!』

 と、同時にその指は根元から吹き飛んだ。
 行き場を失った魔力があらぬ方向へと弾け飛び、牢獄の天井に穴を開ける。
 指の動きが止まるその一瞬を後方から狙っていたチコの一矢が命中したのだ。

「はあああぁぁぁぁ!!」

 軽快なステップから繰り出される一撃と見紛う二撃、【湖面の一閃】がアポクリファの片腕を斬り飛ばした。
 指を欠いて動きが鈍った腕は、しかし血の一滴も出さずに壁にぶつかって瓦礫に埋もれていく。

「……義肢? まさか錬金術まで修めてやがんのか!?」

 本来の腕に加えてあれだけのパフォーマンスを成し得る代物をさらに二本も操るとなると、どれだけの技術を要するのか。
 その上この人数を相手取っても魔術の行使は一糸乱れない。
 魔神の一言では済ませられないほどの所業だった。

『む――?』

 しかし当の魔神アポクリファは少女の顔で眉を顰め、様子を確かめるように三本となった腕を動かしていた。

「ハッ、効果覿面てきめんって面だなァ?」

『……バリー』

「俺がこんな辛気臭ぇ牢獄に何度も足を運んだのはなァ、お前の力を封じ込める結界術式の準備するためだったんだよ。その様子じゃ全盛期の半分も出てねぇな? ざまぁ見やがれ」

『おのれ――!!』

「《立ち昇れ紅蓮の牆壁しょうへき、その威容で以って蹂躙せよ》――《隔てろ》!」

 激昂するアポクリファの火炎魔術を、バリーは【火炎の壁】でもって迎え撃つ。
 技量で完全に劣るバリーですら同系統の魔術で迎撃でき、あまつさえろくな被害も与えられない。
 それがさらに魔神の怒りの炎に油を注いだ。

『――――――!!!』

 叫ぶような呪文詠唱、輪をかけて高速化する十五本の指。
 力の大部分を封じられてなお生み出される破壊の嵐が、怒りによってさらに激化して放たれた。
 呪縛の爆炎が、雷撃の槍が、意志持つ魔剣が、狂気の音撃が、吸血の呪いが、怒涛のように襲い掛かってくる。
 これほどの物量はいかに神速のステップであっても、魔剣二刀流であっても捌ききれない。
 接近していたコヨーテとミリアはもちろん、後方のルナやバリーをすら巻き込んで放射状に吹き飛ばした。

 崩れかかっていた牢獄の壁を更に傷めつけたその衝撃は、ついに建物を半壊させた。
 束の間の静寂が流れる。

『――とどめです』

 カタカタカタカタカタ、と魔神の指が激しく動く。
 追撃の魔術が着々と準備されつつある。

「く、そ……!」

 しかしコヨーテは動けない。
 咄嗟に防御に回した両腕にはアポクリファが呼び出した異界の魔剣が深々と突き刺さり、滔々と血を流し続けている。
 反対側の壁に叩きつけられたミリアも脚をやられて立ち上がれない様子だった。

「コヨーテ! ミリア!」

 二人に近づこうと、後方で被害の少なかったルナが駆け寄るものの瓦礫に邪魔されて上手く走れない。
 そんな彼女は魔神にとって格好の獲物だったのだろう、残った義手がルナを指し示した。
 義手から放たれた呪縛の杭は、しかし叛逆の翼で大気を叩いて急接近したコヨーテに阻まれる。
 間髪入れずに放たれる火炎の魔術、呪縛の杭と火炎による火刑が彼を襲った。

「……ッ、レーヴァティン!」

 ボロボロの両腕で、それでも【レーヴァティン】の全火力をもって火炎の魔術に抗う。
 火炎魔術のエキスパートであるバリーならともかく、あくまで魔剣を扱うだけのコヨーテでは押し返せない。
 じわじわと熱がコヨーテを蝕んでいった。

「コヨーテ――ッ!」

 ルナの叫びが半壊した牢獄に木霊する。
 まるでその叫びに呼応するように、ルナの背後の空間がぐにゃりと歪んだ。

「え……?」

 一瞬後には歪みに大きなヒビが入り、ガラスが割れるような音と共に向こう側の空間から白い何かが現れた。
 白い身体に白いたてがみ、漆黒の蹄に天を衝く一本角が特徴的な白馬であった。
 かつてルナが病に倒れた際に現れた、聖獣ユニコーンである。

 ユニコーンはひと声大きく嘶くと、前足を持ち上げ、そのまま蹄音を響かせるように踏みしめた。
 同時にその一本角からは清らかな水が飛沫となって『月歌を紡ぐ者たち』に降り注ぐ。
 その飛沫は不思議なほど肉体に染み入り、瞬く間に傷を癒していく。

「まさかまた助けてもらう事になるとはな……」

 コヨーテもまた傷が癒えた腕で【レーヴァティン】を振るい、呪縛を打ち破った。
 彼がユニコーンと初めて相対した時もそうだったが、どうもこの飛沫は吸血鬼の弱点を潜り抜けて傷を癒すらしい。

 二度、三度と飛沫を散らすと、ユニコーンは役目を終えたとばかりに存在を薄くして消え去った。
 ルナは何が何だか分からずにぽかんとしているが、すぐに気を取り直して怪我人の治癒に走る。

「はああッ!!」

 一方で脚の傷が癒えたミリアは【海神の双剣】を閃かせてアポクリファ本来の腕を深く切り裂く。
 そちらに気を取られている内に、コヨーテも【レーヴァティン】でもって義手の指を四本飛ばした。

『おォ、のォ、れェェェ――!!』

 再び、魔神の激昂により魔力が渦を巻く。
 先ほどと同じ轍を踏むわけにはいかない『月歌を紡ぐ者たち』は、素早く退いて一ヵ所に固まった。

「ただ耐えるだけってのもつまらねぇよなァ? とっておきのを喰らわせてやるぜ!」

 バリーは【識者の杖】を掲げ、精神を集中する。

「《熱の暴威、みなぎり満ちる爆火ばくかの力よ》、《きの珠玉、焔の卵よ、焚焼ふんしょうの叫びを上げ、炸裂の羽化を遂げよ》」

 いつものように一節ではなく二節の呪文。
 とっておきと称するだけに、上級の魔術である事は間違いなかった。
 バリーの頭上に現れた拳大の火球が、詠唱の進みと共にぐんぐんと大きく成長してゆく。

 しかし、それをただ眺めているだけの魔神ではない。
 バリーよりも一瞬早く、破壊の嵐をもたらす印による術式が結ばれようとしていた。

「《たま散る黒の柱よ、仮初の闇より這い出でよ》――《射貫け!》」

 だが、バリーよりも魔神よりも一足早く
 アポクリファの背後に大きな魔方陣が展開され、中心に向かって吸い込まれるように消えていく。
 やがて一点に集約された魔力は魔神の影から飛び出て一本の大針へと変質し、アポクリファの肉体を背後から串刺しにした。

『がッ――!!』

 完全なる不意打ちにアポクリファの詠唱が、印を結ぶ指の動きが中断される。
 【影闇の針】と呼ばれるその魔術はチコが唯一習得した初級術式であるが、魔力の扱いがまだまだ大雑把ながらも放った矢が穿った地点を中心に発動するように、技術による補助を加えた必殺の術式だった。
 彼女は一日に一度しか撃てないそれを切り札としてずっと温存していた。
 つまり、ここが勝負の分かれ目となる。

「――《灼き焦がせ》!」

 続いてバリーの術式も結ばれる。
 巨大なトロールすらも飲み込むほどに成長した大火球が、悪夢のような速度で撃ち出される。
 直撃を喰らったアポクリファは身体を犬の後ろ脚のように折り曲げたまま、背後の壁に激突し、大火球はタイミングを見計らったかのように大爆発を起こした。

「ッ、うわあっ!」

 その衝撃は周囲を激しく薙ぎ、『月歌を紡ぐ者たち』すら暴風の余波を受けてよろめくほどだった。
 リューン『賢者の塔』が誇る最大火力の攻撃術式、【炎の玉】。
 爆炎でもって相手を焼き尽くす、至ってシンプルながら絶大な威力を秘めた上級魔術である。

 かつてバリーは相対した――とは言えないほどに一方的な蹂躙であったが――魔道士エイベルに心の底から恐怖し、その魔術の腕に死を覚悟するほどに追いつめられた。
 それはバリーにとってトラウマではない。
 魔術の力量差を見せつけられるように上から叩き潰されたプライドがただ悲鳴を上げていた。
 そんな記憶を塗りつぶすにも、過去の自分を乗り越えるためにも、火炎魔術のエキスパートを自負するバリーにとっては【炎の玉】の習得は必要不可欠であった。

『ば、か……な……定命の人間が……、我が肉体を滅ぼす……など……』

 バリーの放った魔術が、永劫の時を生きてきた魔神に致命傷を与えた。
 すでに右半身のほとんどは吹き飛び、唯一残った左の義手は真っ黒な炭と化している。
 もはやここまでのダメージを負ってまだ言葉を吐けるだけでも驚嘆に値する。

「……この結末が創造主おまえの書いた筋書きとだでも言うのか?」

 そんなわけがない。
 仮に魔神がまだ喋れたとしたら、そう言ったはずだ。

「オレたちの未来は『書かれて』などいない。仲間と共に選び取っていく未来の重さを、その想いの全てを、誰が書き尽くせる?」

『………………』

「お前の……負けだ!」

 もはや瞬きひとつすらできなくなった魔神は、虚ろな目を青空に向けたまま動かなくなった。
 異端書物の魔神アポクリファはその身体をボロボロに崩壊させ、風に吹かれて完全に消え去った。



「こっちに揚げじゃが三つ、リューン風ステーキ二人前、ポトフをお鍋でー!」

 はいはーい、と宿の娘アンナが忙しなく宿の中を走り回っている。
 その手のトレイに載せられた使用済みの皿の山はすべて『月歌を紡ぐ者たち』のテーブルから下げられるものだった。
 食べているのはほとんどチコで、他の連中は主に高い酒から狙って注文している有様だが。

「お前らほどほどにしてくんねぇかなァ……」

 先日の水精事件後の宴会でもそうだったが、仲間内の奢りだと割と容赦しないのが『月歌を紡ぐ者たち』であった。
 しかし先日と違うのは、その時は抑え役に回っていたコヨーテが今回ばかりは我関せずという風に黙り込んでしまっている点だった。
 静かにリューン風ステーキを口に運び、お高めの酒をちびちびっている。

「財布が底を尽きそォなんだが」

「……死ぬほど奢る約束だろ」 

「比喩じゃねぇのかそれ!?」

 ぐわーっ! と悲鳴を上げるバリーであるが、それでも注文は止まらない。
 しかしメニューの端から全部制覇しそうな勢いなチコは今回の迷宮探索において最大の功労者だ。
 止めるに止められない。

「大体、書痴が高じて窃盗まがいの行為を、あまつさえオレを巻き込むところから気に入らなかったんだ」

「うぐ……」

「それに魔神を相手取るのにたった一人で準備するなんて危険すぎる。いつも無茶するなとか言ってくるくせに、自分で出来なきゃ説得力ないぞ」

「うぐぐ……」

「反省しろ」
 
 こうして終末の空色教団をめぐる事件は幕を閉じた。
 教団の真実を解明し、魔神を滅ぼした事で治安隊から『月歌を紡ぐ者たち』に少なからぬ賞金が出たが、バリーが何回にも分けて牢獄に敷いてきた魔神封じの儀式とその触媒の代金、そしてその夜『大いなる日輪亭』で開かれた飲めや歌えやの大宴会の支払いを除くと、たいして残りはしなかった。

「親父さーん! ミートパイ追加ー!」

「まだ食うのかよお前ぇぇぇ!!」

 バリーは本気で銀貨が尽きる覚悟をしつつ、二度とコヨーテを怒らすまいと心に誓った。
 後にバリーはこう語る。
 『怒れる魔神より目の前でキレかかっているコヨーテのほうが怖かった』、と。



【あとがき】
今回のシナリオは吹雪さんの「迷宮のアポクリファ」です。
怪しげな新興宗教の裏に潜む巨大な陰謀に立ち向かう、迷宮の探索あり大物とのバトルありで大満足の中編シナリオです。
全ては参謀の知識欲から始まり、それを心配しつつあれこれと走り回るリーダーという関係性が非常にストライクでありました。

コヨーテが真なる魔剣、ミリアも神剣を得たため、これまで以上の大物と戦わせてみたい。
そういう欲から今回のシナリオを選んだと言っても過言ではなく、しかし誰のためかと問われるとやっぱりバリーとチコのためだったかな、と思います。
ひっそりユニコーンも再登場していますが、彼についてもまた追々。

今回、何を置いてもまずはチコでしょう。
レベル3の時点で彼女の弓の腕前はほとんど完成しており、これ以上の『何か』を求めるには別の手段を選ぶ必要がありました。
段々と通常の得物だけでは易々と無効化してくるようなエネミーも増えてきて、ただ生きるためでなく、強さを得るためにチコはその『何か』を探す事になるのです。
決定的となったのは五月祭の日、ロスウェル弓術大会においてであったスロットさんとの会話ですね。
こうして彼女の勉強が始まるわけですが、バリーとまったく同じ道を歩むのでは意味がないため、こっそりとレギウスやクロエに協力を仰ぎつつ、彼女自身の道を歩む事になったのでした。
これからは直観と閃きのチコ、膨大なる知識のバリーという立ち位置で進んでいくかもしれませんね。

そしてバリー!
『大いなる日輪亭』では初のレベル7技能を習得しました。
作中でもありますが、やはり彼は火炎魔術のエキスパートらしく、そして過去の記憶を塗り替えるためにもこのスキルでなくてはなりませんでした。
早逝した彼の父オスカーの全盛期と比べても勝るとも劣らず、バリーもまた一流の魔術師として一歩を踏み出したのです。
所持スキルの半分が炎による攻撃+敵全体という被りっぷりですが、わたしは気にしません!


☆今回の功労者☆
チコ。お前の才能はまだまだつぼみなんだから無限の可能性を求めて征くのだ!


購入:
【影闇の針】-1000sp(四色の魔法陣)
【炎の玉】-1800sp(交易都市リューン)

報酬:
治安隊の依頼:600sp
危険手当:200sp
魔神討伐の賞金(諸経費を除く):100sp

戦利品:
【創作ノート】→チコのバックパック(笑)
【Beginng】

LEVEL UP
バリー、ミリア→6

銀貨袋の中身→4217sp


≪著作権情報≫
今回プレイしたシナリオ
『迷宮のアポクリファ』(吹雪様)

今回使用させて頂いたキャラクター
『バルムス』(出典:『正義の精霊』 作者:アレン様)
『カンタペルメ』(出典:『劇団カンタペルメ』 作者:柚子様)
『エイベル』(出典:『盲目の道筋』 作者:takazo様)

当リプレイはGroupAsk製作のフリーソフト『Card Wirth』を基に周摩が製作したリプレイ小説です。
著作権はそれぞれのシナリオの製作者様にあります。
また小説内で用いられたスキル、アイテム、キャスト、召喚獣等は、それぞれの製作者様にあります。

『迷宮のアポクリファ』(3/4) 

 ふと気が付けば、視界はがらりと変わっていた。

「っ……!」

 空は立ち込めた雲で閉ざされ、足元は切り立つ崖になっていた。
 崖の底は白く流れる霧で覆い隠されている。
 どこを見渡しても宿の屋根裏部屋も、あの経典も、魔術師バンディッシュの姿も見当たらなかった。

「……どうやら侵入できたようだな」

 魔術的空間という話だったが、信じられないほどリアルな空気を感じる。
 まるで単純にどこか遠い地へ転移させられたかのような錯覚に陥った。

「コヨーテ、向こう。何か見えるよ」

 レンツォが指した先に、コヨーテたちは目を凝らした。
 色褪せた影絵のような世界の先に見えたのは、

「塔……?」

 五つ――いや、六つの古ぼけた塔が天を衝いて聳え立っている。
 そしてその塔はそれぞれ霧の海の上で細い空中回廊によって繋がれていた。

「すげー、言われたとおりじゃん。『本の中の牢獄』……」

「何が待ってるんだろうね……でも、進むしかないんだなぁ」

 『月歌を紡ぐ者たち』は注意深く霧の中を進み、もっとも手近な塔へと辿り着いた。
 とはいえ他の塔へは陸が続いていないため、空を飛ぶでもしなければ侵入できない。
 塔は青く冷たい、見た事もない石で組み上げられている。

「何か彫ってあるね……『召喚術師カナーリォが造りし七塔の迷宮』、『四つの色を、虚ろなる空に取り戻せ』?」

「七塔、か。ここに来る前に見た塔は六つだけだったが……」

「ともかく情報、情報だよ。たくさん集めないとその辺の言葉も意味わかんないからねー!」

「了解、参謀殿」

 メンバーを一人欠いているが、チコはもともと後衛だったためいつも通りの隊列を守って歩を進めた。
 塔の中は牢獄の名の通りというべきか、ひどく殺風景だった。
 空間そのものが牢獄になっているのに上も下もないだろうが、他の塔に移動するためには空中回廊を目指す他なく、必然的に塔の頂きを目指す事になる。
 長い長い螺旋階段をひたすらに昇り、やがて塔の最上階に辿り着いた。
 部屋の前には見慣れない金属でできたプレートが掛けられており、『静謐の間』と刻まれたそこには続けてこう刻まれている。

『静謐の空から、眠りの青は失われた』

 そこは今までの殺風景な階段とは違い、ようやく開けた場所になっていた。
 青を基調とした部屋で、床には物音が立たない素材が使われているのか、これまでとは違って靴の音が一切反響しない。
 これまた青いシーツが目を引く寝台が置かれている以外には特にこれといった調度品はなく、壁には星空を描いた絵が掛けられている。

「灰、黒、白……いわゆる無彩色しか使われてない」

 結局、『静謐の間』で得られた情報は少なかった。
 しかし、塔は六つ――名前から読み取るのであれば七つ――あるのだから、最初の塔ですべてが解明できるとは思っていない。
 この部屋も謎を解明するために必要な鍵であるかもしれないが、今はともかく取っ掛かりを見つける事が先決だ。

 『静謐の間』からは北と西、二つの塔への空中回廊が伸びていた。
 しかし北側の回廊は長い年月に耐えられなかったのか、途中で完全に崩落しており、とても向かいの回廊へは進めない。
 すぐさま引き返し、西側の回廊を通って次の塔へと向かう。
 空中回廊も年季の入った朽ち方をしているものの、北側の回廊のようにすぐに崩落するような事はないだろう。

「うわわ、高いですね……」

「怖いならあんまり窓側に寄るなよ。風は吹いているんだから」

 白い霧で覆われた地上が存在するのかはさておくとしても、落下して死なない保証はどこにもない。
 何が起こっても対応できるよう、気を抜かずに回廊を進んでいく。
 ややあって、次なる塔に辿り着いた。
 ここにも同じくプレートが掛けられており、『黄昏の間』の文字と共に一文が刻まれている。

『黄昏の空から、黄金の残光は失われた』

「うーん、ここもやたらと年月を感じさせるね。装飾品もところどころ風化しちゃってるよ」

「こちらにも絵がありますね。これは……夕暮れでしょうか?」

 元は鮮やかだった様子が、今はすっかり色褪せている。
 夕暮れ、つまりは黄昏だ。
 どうやら部屋の名と絵画のモチーフは連動しているらしい。

「チコ、どうです? 何か分かりますか?」

「静謐に黄昏。塔ごとに記号が埋め込まれているのは間違いないねー。塔が七つというなら、あとひとつ見たらだいたい分かるかも?」

「本当ですか、頼もしいです!」

「……チコに対して甘いのは君もじゃないのか?」

「わ、私はチコの成長を褒めただけですので!」

「はいはい、漫才はその辺で終わってね。ええと、次は『虹の間』だってさ。……お? なんかさっきまでと雰囲気違うね」

 話している間にも『月歌を紡ぐ者たち』は歩を進め、三つ目の塔へと辿り着いていた。
 『虹の間』のプレートはこれまでの定型文のような記述ではない。

『空より光は還る。人の子と、人ならざるものの子が、心に真実を持つならば』

「ここは特別な場所みたいだね。名前からして七塔の中心なのかも」

 確かに『虹の間』はこれまでの二つの塔とは造りが異なっていた。
 天井はひときわ高く、天辺はガラス張りで空の光が差し込んでいる。
 まるで科学の実験でもしていたかのように、机の上に空のガラス瓶がいくつか置いてある。

「これは……プリズム?」

 部屋の一段高いところに水晶でできた三稜鏡プリズムが設置されていた。
 東西南北に四つ、それぞれ赤、青、黄、紫の四色がある。
 明らかに魔術的記号だ。

「……っ!」

 チコと一緒に手近な黄のプリズムに近づいたコヨーテは息を呑んだ。

『醜きもの、人にその身を捧げるもの、心しずけきもの、多くを願うもの――そして、空を行く竜の子が触れよ』

 コヨーテの頭の中に、男とも女とも分からない無機質な声が響いた。
 チコも頭に手をやって思案顔をしている。
 罠というには大げさだが、プリズムに近づいた者に無差別で発動する魔術のようだった。

「……触れれば何かが起きる」

「うん。『声』の通りに資格を持つ者が触れれば『光は還る』……はずだよ」

「資格を持たなければどうなる?」

「……きっと死にはしない。けど厳しめのペナルティが降ってくるだろうね。まだ触んないほうがいいよ」

「どこから読み取ったんだ、それ」

 チコは悩むように一頻り唸った後、おもむろに口を開いた。

「まだ半分も塔を見てないからちょっと想像も入ってるけどね。色とかプリズムとか、たぶんこれって『鍵』だよ。なんかそういう勿体ぶった言い方じゃなくて、そのままなんだ」

「そうなのか?」

「虹って橋みたいに見えるでしょ。空にかかるところからも地上と天界を繋ぐ架け橋みたいな解釈がされる事もある。有名どころでは北欧神話、神々が渡る橋ビフレストがあるよね」

「あるよね、って言われても知らないんだけど……くっそぉ、チコに知識で負けたみたいでちょっと悔しい」

 レンツォは本気でショックを受けている様子だったが、チコは構わず話を続ける。

「静謐が青、黄昏が黄を失ったのなら、それは虹――外との懸け橋――が欠けているって意味だよ。色を戻してやれば橋が造られ、外への出口が現れるはずだよ」

「となれば紫と赤を失った塔もあるのか。だが、バリーを惑わした方法に関しては……」

「今のところ手がかりはないね」

 しかし出口をこじ開ける方法が見つかったのであれば何よりだ。
 まだ塔の全てを調べたわけでもなし、色に関する情報以外も出てくるはずだ。
 念のために全てのプリズムに近づき、おそらくは脱出の鍵となるであろう言葉をメモに取った。

「ひとまず、ここのプリズムは全部の塔を回った後だね」

 チコの言葉に頷き、『月歌を紡ぐ者たち』は更に迷宮の奥へと歩を進めていく。



「ありゃ、ダメじゃん」

 『虹の間』から北に位置する空中回廊は長い年月の重みに耐えられなかったのか、途中で崩落していた。
 最初の塔にも崩落した回廊があったが、これで北のルートは完全に孤立している事になる。

「向こうに致命的なヒントがあったらどうしましょう……」

 回廊の崩落が昨日今日のものでない可能性もあるため、色を失った絵画がある塔ではないかもしれない。
 しかし、わざわざ本の中の牢獄に足を踏み入れたのはバリーを惑わす何かを調査するためだ。
 そこに重要な何かが眠ったままになってしまうのはとてもよろしくない。

「ねーコヨーテ、コヨーテって飛べるんだよね?」

「ああ、少しくらいなら」

「あれ見てあれ。こっちは崩落が大きくて空が見えるでしょ? あそこから飛び出せない?」

 チコが指さした先は天井に大きめの亀裂が走り、そこから曇天が覗いている。
 確かにコヨーテの叛逆の翼があればそこから飛び立ち、向こう側へ辿り着く事ができるはずだ。

「分かった。調査してくる――って、おいチコ。どうして背中に張り付いてくるんだ」

「私がいかないと魔法的な仕掛けは分かんないでしょー。大丈夫大丈夫、私ってば超軽いし」

「確かに一人くらいなら飛べるだろうが……翼ってのは背中に生えるものだからな?」

「つまり前から抱き着けと言いたいんすね? やだーコヨーテのえっちー」

「……足にでもしがみついてればいいんじゃないか」

「わー、うそうそ! ごめんってばー!」

「先に言っておくが、飛ぶのにはあまり慣れていない。あまり暴れるなよ」

 ひと悶着あったものの、得物はすべて真紅のリボンに格納し、コヨーテはチコをお姫様抱っこした。
 そのままでは不意の事態に取り落としかねないので、チコの両腕は首に回してもらう事で安定性を高めた。

「軽く調査したら戻る。何があっても深入りはしないから、皆は休憩でもしていてくれ」

「くれぐれも無茶だけはしないでくださいね」

 コヨーテは頷いて、背中から漆黒と純白の翼を展開する。
 【黒翼飛翔】により生まれた蝙蝠の片翼と『叛逆者』による鳥類の片翼で大気を叩き、空中へと飛び出した。

「わぁ――」

 チコは感嘆の声を漏らした。
 地上は相変わらず白い霧に覆われているが、それでも数十メートルはあろうかという塔の空中回廊から飛んでいるのだ。
 絶景というには恐ろしいものの、六つの塔が空中回廊で繋がっている様が良く見える。

「これは……!」

 そう、良く見えた事で知ってしまう事実があった。
 『静謐の間』のあった最初の塔、そして『虹の間』のあった塔から伸びていた空中回廊がどちらも崩落していたのは偶然ではなかったのだ。
 回廊が繋ぐ先、おそらくは七つ目の塔へ向かっていたはずのそこには、

「もしかして……老朽化で倒れた? あるいは何らかの目的があって壊された?」

 だとしても折れた先を探すにはあるかも分からない地上へ降りなければならない。
 そうするにはとてもじゃないがコヨーテの翼がもたないだろう。

「……残りの塔に謎が残っているといいが」

「待ってコヨーテ、諦めちゃダメ。あっち見てよ」

 チコはなぜか頬をつねってコヨーテの顔の向きを矯正した。
 そこは何らかの魔力の影響でもあるのか、大きな岩場が空中に漂っているように見える。
 いや、事実浮遊しているのだ。

「――行ってみよう」

 このまま無手で戻っても特に進展はない。
 であればおそらくは七つ目の塔と隣接していたであろうあの岩場に何かが残っていると希望を抱かずにはいられない。
 岩場には小さな石造りの建物があり、鉄格子の降りた門があった。

 門は固く閉ざされている。
 それを開く仕掛けのようなものも、鍵穴すらも見当たらない。
 これではいくら本職のレンツォを連れてきてもお手上げだろう。

「……うわぁ、すげー。この門、やばいくらい硬いよ。何重にも硬化の魔法がかけられてる」

「……魔法的な罠がある可能性は?」

「ないね。殴ってみなよ」

 お言葉に甘えて、とコヨーテは【レーヴァティン】を思い切り振りかぶって鉄格子に向けて振り落とす。
 凄まじい金属音が鳴り響くが、摩耗しない真なる魔剣【レーヴァティン】はともかく、それよりもずっと細いはずの鉄格子にも傷ひとつついていない。

「これを壊すには相当数の攻城兵器か、ドラゴン数匹がいないと無理だねー」

「魔法の解除はできないか?」

「ダメ。専門外。つーかたとえできたとしても何十にも折り重なってるから、解呪だけで数日かかるよ」

「そこまで厳重なのだとしたら、この先にこそオレたちが求めている答えがある気がするな」

 これだけの手間と魔法をかけて守っているものとは一体何なのか。
 おそらくは万が一にでも外に出す事があってはならない、教団の急所のようなものなのだろう。
 あるいは門を開けるための何かが消えた塔にあったのかもしれないが、それでも他の塔に可能性が残っていないとは限らない。
 コヨーテとチコは岩場での調査を打ち切り、元の回廊へと再び飛んで戻っていった。

「たーだいまー!」

 合流した仲間たちに得た情報を共有すると、『虹の間』まで引き返して次の塔を目指す事にした。
 次なる塔へと進もうとするが、塔と塔とを繋ぐ空中回廊の向こう側からは強い風が吹きつけてきた。
 進むのも困難なほどの強い向かい風だ。

「これは自然の風じゃないよ。この先にある魔法的な装置が吹かせてるね」

「でも、何のために?」

 冒険者たちは顔を見合わせた。
 通路の手前側、門扉の横に白骨が転がっている。
 随分奥から風で飛ばされてきたようだった。

「この白骨、妙だね。胴体や首の骨が鋭利で重い何かですっぱりと斬られている」

「……剣や斧ではこうはならないわ。たとえコヨーテ以上の膂力があったとしても無理よ。技術的な問題でなく、相当の質量と速度が必要ね」

「しかもこの白骨、一人じゃない。何人かの遺骨がから飛ばされてきたんだ。一体、この風は――」

「――レンツォ! 止まりなさい! それ以上動かないで!!」

 調査のためじりじりと歩を進めるレンツォを、ミリアが鋭く静止した。
 反射的に身構える冒険者たちの、その鼻先を。

「――ッッッ!?」

 轟! と低く唸る何かが横切って行った。

「こいつ、は……!!」

「そう、こいつよ! さっきの白骨死体をバラバラにしたのは!」

 二度三度と振り子のように通路を横切り続けるそれは、巨大なギロチンであった。
 魔法的な突風で視覚と聴覚を鈍らせ、物理的なギロチンによる必殺という二重の罠。
 どちらか一方にのみ精通していたとしても無事には通れない、そんな道だった。

「このまま突っ込んでいたら今頃全員真っ二つでしたね……」

風精シルフの動きが妙なのに気づかなかったら危なかったわ」

「うへぇ、悪趣味……助かったよミリア」

 罠の様子を見守っていたレンツォはチコを手元に呼んだ。
 突風の中で音が掻き消されるもののどうにか意思を伝えると、チコはすぐに弓に矢を番える。
 巨大な刃が往復するタイミングを計り、合間を縫うように矢を放つよう指示を出した。

 ヒュガッ! と矢は敷石の隙間に突き立つ。
 それと同時に、数多の人間を殺めた無慈悲なギロチンは動きを止めた。
 突風に邪魔されながらもレンツォは罠の停止装置を見抜き、そこを狙撃させたのだった。

「この手の罠は維持管理のためにすぐそばに停止装置がある事が多いんだ」

 蛇の道は蛇。
 戦う力がなくてもレンツォは『月歌を紡ぐ者たち』にとってなくてはならない存在なのだ。

 その後も三重の罠がないか警戒しながらも、一行は着実に回廊を進んでいった。
 ややあって現れる回廊の終わりにして部屋の入口にはお決まりとなったプレートが貼りつけられていた。
 『嵐の間』と刻まれたプレートには共にこう刻まれている。

『嵐の空から、紫電の雷光は失われた』

 天井の中ほどに天窓があり、そこから強い風が吹き下ろしてきている。
 どうやら途中の回廊に吹き込んでいた突風はここから供給されていたようだ。

「おおー、この突風の術式って塔そのものに組み込まれてるタイプだよ。すげー!」

「つまり?」

「解除不可能! 無理やり解除しようとすると塔も一緒に崩れるよ! てゆーかそれ以前に解除するほどの腕がなーい!!」

「楽しそうに言う事じゃないでしょ」

 何はともあれ、突風は直接的な害を与えない罠だ。
 風の音が鬱陶しいものの、解除できないからといって致命的な要因にはならない。
 気を取り直して調査を再開すると、ここにも今までの塔と同じく壁に絵画が掛けられていた。
 無彩色ではあるが嵐の空を描いたもののようだ。

 『嵐の間』にも脱出の鍵以外の情報はなく、『月歌を紡ぐ者たち』は次なる塔へ進んでいく。
 突風は『虹の間』とを繋ぐ空中回廊にしか吹いておらず、別の塔へ向かう回廊は風がないだけで快適に思えるほどだった。

「むっ」

 レンツォが何かに気づいて立ち止まる。
 ズッ、ズッ、と何かを引きずるように迷宮の闇の奥から何者が近づいてくる音がする。
 採光窓から溢れる光に照らされたそれは、人の姿をしているが、およそその生命を感じ取れるような形をしていなかった。

「ゾンビか……」

 かつては信者だったのだろう。
 空色教団の僧服に身を包んだ動く屍たちは無残な姿で冒険者に襲い掛かった。
 が、次の瞬間には魔剣と神剣が閃き、ゾンビたちの首を残らず刎ね飛ばしてその動きを止めさせた。
 ゾンビの亡骸を回廊の端に寄せ、コヨーテたちは思索する。

「なんだって牢獄にゾンビが? いや、それよりもあの僧服、空色教団の信者で間違いないと思うが……なぜ信者がゾンビに?」

「空色教団があらゆる非道を行ってきた事は周知の通りですが、信者までも実験に使っていた……というのも苦しいですね」

「信者の中でも罰せられるような人間だったとか?」

「処刑場に使っていたのかも」

 結局のところ、本の中の牢獄がどんな目的で使われていたかははっきりしていない。
 しかし突風の罠を越えた先にゾンビがいたとすれば、あるいは番犬代わりに放ってある可能性もある。
 心臓部が近いのかもしれない。

『夜明けの空から、始まりの赤き輝きは失われた』

 次の塔は『暁の間』、そしてプレートにはそう刻まれていた。
 同時に、例のごとく無彩色で描かれた絵画も壁にかけられている。
 それよりも目を引いたのは、空中から大きな檻がいくつもぶら下がっており、その中には粗末な身なりの老人が入っている事だった。

「……騒がしいのう。なにごとじゃ?」

 どうやら意思の疎通は可能なようだ。
 ついさっきゾンビを倒した得物を抜いたままだったので説得力がなかったかもしれないが、どうにかこちらに敵意がない事を伝えた。

「何者なんだ、あんた」

「色々あったが忘れてしまったよ。ここでは腹も減らん、記憶も曖昧になる。覚えとるのは……教団の司祭に言葉巧みに誘われてここにやってきたが、最後は魔神の生贄にされるちゅうてここに閉じ込められた事だけじゃ」

「魔神の……生贄!?」

 突拍子もないワードが出てきて、思わずチコは声を上ずらせた。
 空色教団の者と思しきゾンビがどうして現れたのか、その謎が一気に解けそうな予感がする。

「この迷宮を作った魔術師は異界から呼んだ魔神をここに閉じ込めようとしたのじゃ。じゃが魔神は魔術師を喰らい、ここから脱出した。今にして思えば……空色教団とは創造主の意に従う教団ではなく、魔神の口車に踊らされた者たちだったのかもしれぬ」

「……その魔神は一体どこにいるのです?」

「『司祭の下に連れて行かれた信者は誰も帰ってこない。あの司祭こそ、魔神が姿を変えた者に違いない』……遠い昔、信者の一人がこう言っておった。そやつも司祭に呼び出されてから一度も顔を見ておらんがな」

 コヨーテの心臓が跳ねた。
 あの女司祭がその魔神だというのか。
 もしそれが真実であれば、それに何度も会いに行っているバリーはどうなっているのか。

「思えば若くしてあの落ち着き、それに異様な美しさ――何年も姿が変わらぬのも数々の術を使いこなすのも、魔神の変化というなら道理じゃ」

「……お爺さんはなんでここに?」

「ここは空色教団が信仰心の厚い者を集める特別な寺院だったのじゃよ。いや、司祭からはそう聞かされていたが、実際に来てみればそうではなかった……単なる牢獄じゃ。ここは魔神が欲しがる人間の魂を閉じ込める場所だったのじゃ」

 自分が閉じ込められるはずだった牢獄を、逆に好き放題使いまわしているという事か。
 魔神の名に相応しい傍若無人っぷりだ。

「仲間は皆、魔神に魂を食われ、死人使いに生ける屍にされてしもうた」

「オレたちがさっき葬ったゾンビか……」

「わしもこの檻が壊れて閉じ込められておらなんだら、あの死人と同じ運命だったのじゃろうな」

 もう何十年、下手すれば何百年とここに閉じ込められているのだろう老人は、悟ったような物言いをした。
 その様子に、思わずコヨーテは口を開いた。

「……なぁ、爺さん。ここから出たいか?」

「ほほっ、随分優しい侵入者じゃな」

 そう言って、初めて老人は笑顔を見せた。
 しかしその色もすぐさま薄く寂しさを湛えたものに変わる。

「もはやすっかり身体が弱ってな。ここから出たら長くは生きられんじゃろう。気持ちだけ、ありがたく受け取っておくよ」

 老人は満足げに頷いた。
 それに対してコヨーテは何も言えず、ただ奥歯を噛んだ。

「いや、久しぶりに人と話した。好い気分じゃのう。話をするのは。昔はわしも、絵師として……多くの人間と」

「……ッ!」

 老人が檻に添えていた手が急速に痩せ細り始めた。

「そう、そうじゃった……わしは絵師だったのじゃよ……思い出した――エドゥアルド・カリェーハにあこがれてのう――絵筆をとった」

 彼が話している間にも、変化は起こり続けている。
 夢現で言葉を紡ぐ老人の身体は少しずつ灰となり、崩れ始めた。

「お前さんらが良い眼をした美男美女ぞろいで……絵心が戻ってきたわ……」

「もう……、もう喋るなッ!」

 コヨーテは黒白の翼を羽ばたかせて飛翔する。
 檻だろうが何だろうが、こじ開けてでも老人を外へ出したかった。
 たとえ保たないとしても、檻の中で命を尽き果てさせたくはなかった。

「絵は……絵は良いのう。わしも最後に、お前さんらの絵を……描いて、みたかっ……た――」

 そう言い残し、老人は灰となって檻の底に崩れ落ちる。
 老人の手を取ろうとしたコヨーテの手の中には、一本の絵筆が遺された。

「……くそっ!」

 もはや誰もいなくなった檻が寂し気に揺れる。
 錆びついた鎖が軋む音が、やけに耳障りに『暁の間』に響き渡った。



 『嵐の間』まで戻り、もう一つの空中回廊を進んだ先には大きな門が立ちはだかっている。

「たぶん、ここが一番遠くに見えた大きな塔の真下だよ」

 門の左右には翼をもつ悪魔の彫像が鎮座ましましている。
 ここまであからさまだと、いわゆる守護者としてのガーゴイルである可能性がある。

「ま、たとえガーゴイルだろうが退けるはずがないんだけどね」

「同感だな」

 そう言ってコヨーテは左の、ミリアは右の石像へと歩み寄る。
 次の瞬間、彼らの目の前で二つの石像が羽ばたき、空中へと舞い上がった。

「やはりガーゴイル!」

 十分な警戒をもって歩み寄った二人は奇襲を受けず、そのままガーゴイルと相対する。
 本来なら屋内でのガーゴイルは大仰に飛べないためさほど脅威ではないのだが、この空中回廊は異常なまでに天井は高く、彼らは自在に飛びまわっていた。

「動き回られると厄介だな」

「同感ね」

 ミリアはコヨーテの考えを見抜いたように言った。
 事実、彼女は海神の双剣を頭上に振り上げて、腰を低く構えている。
 コヨーテも【レーヴァティン】を引き絞るように切っ先を相手に向けて構えた。

「はぁぁ――!」

 二体のガーゴイルは飛翔し、鋭い爪を繰り出してくる。
 あのスピードでヒット&アウェイを繰り返されると厳しい。
 ならばその強みである翼を引き裂いてしまえばいい。

「――!!」

 コヨーテとミリアに向かい、ガーゴイルは風を切って迫りくる。
 すれ違う瞬間、二人はそれぞれの得物をそれぞれの技術の粋を集めた技を振るう。
 ミリアの持つ【海神の双剣】の刃から青白い魔力が滲み、それは半実体の斬撃となって放たれた。
 コヨーテの持つ【レーヴァティン】が激しく火花を散らし、炸裂の衝撃で爆発的な超加速を得た一閃が放たれた。

 【斬塊閃】、そして【既殺の剣】。
 ともに『必殺』の名を冠するほどに研ぎ澄まされた一撃は、ガーゴイルの翼を完膚なきまでに破壊して地に墜とした。
 そうなればいかに魔法生物とはいえ鈍重な怪力持ちでしかなく、数で勝る百戦錬磨の冒険者の敵ではない。
 さほど時間を置かず、ガーゴイルは粉々の石塊となった。

 ガーゴイルを倒した事が条件となっていたのか、門がゆっくりと開く。
 門をくぐり、ついに『月歌を紡ぐ者たち』は最後の塔へと足を踏み入れた。
 外から見て最も巨大な塔は『召喚の間』と銘打たれており、更に奥へ進む通路も存在している。

『空に四つの色が還る時、閉じた円環は柱となる』

 プレートに刻まれた文字から読み取るに、やはりチコの推察は当たっていたと言える。
 この牢獄から出るにはそれぞれの塔に色を戻してやる必要があるのだ。

 更に奥へ進んだ先にももう一つの部屋が存在した。
 そこにはこれまでの部屋と同じくプレートが掛けられていたが、その文面はおよそ一致するものではない。

「『生体実験区画』……?」

『薬品精製装置の扱いには十分注意すること。有毒ガス発生の危険あり!』

 これまでの詩的な文章とはかけ離れた言葉だった。
 すなわち牢獄の出口に至る道筋ではないという証左である。
 部屋の中は所狭しとフラスコや薬品が詰まった棚がひしめき合い、ある区画には謎の器具もあった。

「何かの実験に使われていた区画みたいだけど、なんだかよく分からないね……」

「教団本部にあった実験の記録にも合致しないような、そんな類の特別な場所なのかもしれない」

「まだ稼働してそうな器具もあるけど、とりあえず触んないほうがいいよ。マジで毒ガス出るかもだから」

 器具には触れないようにしつつ、レンツォはさらに調査を進めていく。
 すると、近くの本立てに器具類のマニュアル一式が見つかった。
 内容を精査するに、どうやらその器具は古代の秘薬を作り出すためのものだった。

「この装置で人間が異種族になる薬が作れるらしいね。装置に残っている材料がもうわずかしかないから、作れる量にも限りがあるけど」

「……どういう事だ?」

「吸血鬼化、木偶人形化、竜化、獣人化……要するにそれらの秘薬を飲めば身体の構造が組み変わって、まるで元から吸血鬼や木偶人形だったみたいにんだそうだよ」

 それも一昼夜限りだけどとレンツォは付け加えるが、とんでもない事だった。
 確かに人間の肉体を吸血鬼に変える術式は存在する。
 だがそれも相当に高位の魔術であり、とても単なるカルト教団が用意できるような術式ではない。
 それどころか、一昼夜とはいえ魔力から切り離した物体として精製するなんて恐ろしい技術力であると言わざるを得ない。

「……こんなもの、一体何のために」

「ですが、空色教団がそのような魔物を従えていたという記録はありません。何かの間違いでは?」

「相当数の実験が行われた形跡があるわ。これは空色教団の行った非道からも読み取れる事実よ。これを覆さない限り、その器具が生み出す秘薬がそうでないと否定はできないと思うけれど」

「たぶん、全部つながったよ――」

 一人静かに器具のマニュアルを読み続けていたチコは口を開いた。

「きっとこの牢獄自体が空色教団に都合のいいように書き換えられてるんだと思う。だから『七塔の迷宮』には六つしか塔がなく、空に色を取り戻すためにはそれらの薬品が必要なんだ」

 チコは『虹の間』でメモを取った、プリズムが囁く言葉を示した。

「『竜の子』、『獣』、『人の形に作られし命』、『血の祝福を受け、夜を行くもの』……これらがそれぞれの四つのプリズムに対応していて、適応する者が触れれば『空に色は還る』、つまり脱出だよ。って事は、それらの要素を持たない者がここを出るにはどうすればいい?」

 問われるまでもない。
 脱出の方法は空に色を還す他に見つかっておらず、水も食料も存在しないこの世界で長く生きる術はない。
 であれば、得体のしれない薬品だとしても縋るだろう。

「教団は何を考えている?」

「……最初から公言してるよ。『言葉を持つ生き物は創造主が何かを成すための入れ物』だって。そしてこう続く。『それに気づいた人間は世界を変えるだけに十分な力を手に入れられる』」

「――まさか」

 思わず言葉を詰まらせたルナに、チコは静かに頷いた。
 不死者となった教団員、檻の中の老人の言葉がそれらを証明している。

「空色教団の教えの通りに肉体という入れ物を捨て去り、竜や獣、吸血鬼や人形ひとがたとなってでも牢獄を出ようとする強い衝動……きっと魔神はそれを欲しがったから……

 不死者となった信者たちは単なる生贄ではなかった。
 おそらくは彼らも肉体を捨て去るほどの熱心な信者であると見初められて、ここへ閉じ込められたのだろう。
 しかし彼らは脱出しなかった。
 得体のしれない薬品を服用する勇気、あるいは蛮勇を持ち得なかった。
 そんなものがいつまでも牢獄に放置されていては邪魔にしかならない。
 だから魔神はそのままに喰らったのだろう。

「すべては魔神のために……か」

 コヨーテの呟きは塔の中に虚しく響き、そして消えた。
 空色教団は単に魔神に騙された生贄の集団だった。
 魔神の持つたったひとつの悪意が、あらゆる人間を不幸にし、涙を流させていた。
 到底許しておけるものではない。

 一行は『虹の間』に戻った。
 欲した情報はほとんど集め終わっており、この牢獄にこれ以上長居する必要もない。

「さ、まずはコヨーテ。赤いプリズムに触れてみて」

「……分かった」

 かなり軽いノリで言われてしまい、ちょっと面食らいつつもコヨーテは赤いプリズムに近づいた。
 同時に、頭の中に声が響き渡る。

『美しきもの、己の望みに生きるもの、心明るきもの、多くを求めぬもの――そして、血の祝福を受け夜を行くものが触れよ』

 コヨーテがプリズムに触れると、それは微かに赤く発行した。
 やがて空中から一条の赤い光がプリズムに伸び、やがて傍にあった空のガラス瓶に集まると、煌めく赤色の塗料へと姿を変えた。

「『吸血鬼』のプリズムはいいんだろうけどさ……残りの『竜』、『獣』、『人形』はどうすんのさ」

「まぁまぁ、まずはこれ見て」

 チコはメモを広げて説明を始めた。

「四つのプリズムに四つの要素。……だけど、何も『竜』とか『獣』が必要なわけじゃないんだなー、これが。ほら、書きだしを見てよ」

『美しきもの、己の望みに生きるもの、心明るきもの、多くを求めぬもの――そして、血の祝福を受け夜を行くものが触れよ』
『醜きもの、人にその身を捧げるもの、心しずけきもの、多くを願うもの――そして、空を行く竜の子が触れよ』
『神を信ずるもの、約束の王国を望むもの、儚き絆を信ずるもの、未来を恐れぬもの――そして、人の形に作られし命が触れよ』
『神を信じざるもの、変転の未来を望むもの、永遠の栄光を望むもの、未来を恐れぬもの――そして、大地と獣の力を継しものが触れよ』

「……前半と後半が必ずしもつながっているとは限らない?」

「そのとーり! 『竜』とか『獣』は外見でそれと分かる要素なだけで、実際には内面を問いかけているもののほうが多いんだよ」

 プリズムに近づいた時に頭の中に声が響くのもその判定のためだとチコは言う。
 外見にも言える事だが、こと内面を推しはかるには単なる問答では意味がない。
 蝙蝠が反響定位エコーロケーションを用いて周囲を把握するように、声に対して特定の要素にだけ跳ね返るような仕掛けがあったとすれば、判定は可能なのだろう。

「だからさ。青は『約束の王国を望む』意外と秩序派なミリア、黄は『人にその身を捧げる』献身的な性格のルナ、紫は『未来を恐れぬ』楽観的な考えをしてるレンツォがそれぞれ触れれば問題ないんだよー! さー行ってこーい!」

「意外とって何よ失礼ね」

「チコがすごくそれっぽい事言っててちょっと感動的なんですけど……」

「ふはははは、しょうがねぇ。『未来を恐れぬ』レンツォさまがやってやるぜ!」

 半信半疑ながらも、ルナたちはそれぞれ指定のプリズムに手を触れた。
 するとコヨーテの時と同じく、プリズムは光を放った後に近くのガラス瓶を塗料で満たした。
 あくまでバリーがいない間の代わりだと割り切っていたが、ここまでやれるとなればさすがにチコへの評価を改めねばならないだろう。

「もうバリー要らないわね、これ」

「変なところでつまづくのがチコだよ。あんまりおだてないほうがいいよたぶん」

「ぶー! こんな時くらい素直に褒めてよねー!」

 一端の魔術師であると証明したチコだが、そうやって頬を膨らませて拗ねている分にはいつも通りだ。
 レンツォの言い分も取り入れて、コヨーテはただ黙ってチコの頭を撫でた。
 とはいえバリー不要論は即座に撤回されるべきであるが。

「あとは塔にかけられていた色を失った風景画に塗りたくれば『色は空に還る』んだけど……ひとつわがまま言っていい? 『生体実験区画』に変な器具あったじゃん。あれってさ、同じ材料で強酸性の薬品が作れるみたいなんだよね」

「それが欲しいんですか?」

「コヨーテ、あの岩場にあった門の鉄格子おぼえてるでしょ? あの硬化魔法ゴリゴリのやつ」

「まさか薬品で溶かせるのか?」

「マニュアルの記載が正しければ、だけどね」

 コヨーテも最後に残されたあの門の先に興味はあった。
 処分できなかったのか、あるいは別の理由か。
 どちらにせよ魔神が残した最後の手がかりではあるはずなのだ。

「やってみる価値はある、か」

「まぁ、結局は『嵐の間』にも『暁の間』にも戻らなきゃならないんだし、手間じゃないわね」

 こうして脱出のための解錠を済ます傍ら、『生体実験区画』に立ち寄って強酸性の薬品を精製したコヨーテとチコは再び浮遊する岩場へと向かうのだった。


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『迷宮のアポクリファ』(2/4) 

 翌日、勢いのある雨音にうんざりした様子で、コヨーテは曇天を恨めしそうに睨んだ。
 昨日の午後から降り始めた雨は夜が明けても降り続けていた。
 コヨーテのように半吸血鬼でなくとも、こんな雨の中でわざわざ外出しようなどと思う人間はいないだろう。
 冒険者のようにある意味では仕事を選べる人種であるならなおさらだ。

「この分だと、今日も依頼に出る目はなしかな……」

 などと考えながら、コヨーテは自室を出て階下へ降りていった。
 いつもの席に腰を掛け、酒場を見渡す。
 昨日よりも遅い時間だ。
 仲間たちもそれぞれ朝食を摂ったり窓の外の天気を窺ったりしている。

「おはようございます、コヨーテ。今日も雨ですよ」

「おはよう。そうみたいだな」

 挨拶を交わし、コヨーテはカウンターへ向かう。
 カウンターの向こうでは宿の亭主が忙しなく動き、朝食時の注文を捌いている。
 そんな中で話しかけるのは心苦しいが、おそらくは彼が最も情報を持っているに違いない。

「バリーを知らないか?」

「わしはまだ見ておらんが……」

「あ、バリーさんでしたら朝早くに戻ってきて、また出かけるからってパンの包みだけ持ってまた出ていきましたよ?」

「……、昨日は戻っていなかったのか」

 やはりか、とコヨーテは怪訝な表情を見せる。

「確かに夕食どきも見なかったが……おいコヨーテどうした。顔が険しくなってるぞ」

「そうですよ。なんか、娘が夜遊びしていたのを知ったお父さん! みたいな顔で怖いですよ」

「どんな喩えだ……なんでもないよ」

 適当にあしらって、コヨーテは仲間たちが集まるテーブルへと移動した。
 ちょうど依頼の貼り紙を吟味してきたらしいルナと合流したが、彼女の表情は明るくない。
 やはり、あれからまともな依頼はなかったようだ。

「そういえば、昨日バリーは仕事を探しに行ったのですか?」

「いや、違う。おそらく……」

 コヨーテは仲間たちに昨日の話を伝えた。
 多分に第六感が入り込んだ部分は話さなかったものの、やはり皆も少しおかしいとは感じたらしい。

「……そんなに気にするようなものだったのでしょうか、あれは」

「分からない。だが、よほどにご執心の様子だからな」

 とはいえバリーの書物狂いは今に始まった事じゃない。
 取り立てて目立った異常がない今、これ以上議論する事もなくなった。
 ともかくバリーの帰りを待って事情を詳しく聞くしかない。

「あーもう、雨止まないねー」

「依頼でもないのに雨の中を歩きたくはないよね。でもあんまりこういう日が続くと財布の中身が心配になってくるよ」

「そうなりゃもう酒場で演奏でもして聴衆から銀貨を稼ぐくらいしか思いつかないわね……で、チコ。あんたはどうしてリュートなんかを持ち出してきたの」

「出番が来たかな、と。てへへ、最近いろいろやってんだー!」

 かつてないドヤ顔を見せつつ、チコはリュートを抱える。

「リュートの弾き語りなんてできるのか?」

「もち! サーガだって自作したしー!」

「本気か」

「まーじまじ!」

「……神に誓って期待していませんが、ちょっと歌ってみせてくれますか」

「よっしゃ、リクエストいただきましたー!」

 張り切って、チコはリュートを奏で始めた。
 たどたどしい手つきで始まった演奏は、しかしそれなりに練習したであろう事が覗える出来ではあった。
 しかし、肝心のサーガのほうはと言うと。

「チコ……なんだその『呪われし英雄ミリアのサーガ』って」

「えーと、細かい設定は別にあるんだけどー、このサーガでは――」

「設定とかは聞いていません。どうして私たちの実名がそのまま出ているんですか」

 こうしてチコは仲間たちから自作のサーガの不明瞭な点について、極めて厳しい追及を受けた。
 唯一評価されたのはコヨーテが半吸血鬼である事を明かさなかったその一点だけである。

「まったくと言っていいほどフィクションの要素しかない……」

「そ、そんな事ないもん! ちょっと魔族の血を引いてて、いい感じの秘儀を使いこなし、最後には竜殺しになったりするだけ!」

 日頃の行いがそうさせるのか、チコの抗議は『月歌を紡ぐ者たち』の誰にも受け入れられる事はなかった。

「まぁ、演奏は良かっただろう。それにサーガも自作となればすごいとは思うが」

「わぁーん、そう言ってくれるのはコヨーテだけだよー!」

「……コヨーテはちょっとチコに甘すぎなのでは?」

「そう言うなって。多方面に興味を持つのは悪い事じゃない。特にチコはまだ若いんだし、無限の可能性が眠っているかもしれないんだから」

 チコが幼少期に負ったトラウマは彼女の成長を酷く阻害していた。
 未来への展望が一切なく、今の技術を磨く事はあっても新しい何かに挑戦する事は少なかった。
 だからこそ、これらはいい傾向だとコヨーテは感じている。

「『この物語はフィクションです。実在の人物、宿などとは一切関係ありません』って書いとくのはどうかなー?」

「まだ言ってんのあんた……ん? チコ何か落としたわよ」

「あっ」

 彼女が落としたのは羊皮紙の束だ。
 しかしその表紙には『創作ノート(部外秘)』とでかでかと書かれており、更にはミリアが拾うほうが早かったのが悲劇だった。

「っあああああああああああああああああああ!!!!!」

 本来、チコが個人として楽しむなどの他は公開される予定がなかった創作ノートがよりにもよってミリアの手に渡った事により、『月歌を紡ぐ者たち』の創作環境は厳しい冬の時代を迎えた。
 若気の至りとは恐ろしい。

「おとりこみ中もうしわけない。私のリュート返してねチコちゃん」

 そこへ『星を追う者たち』の吟遊詩人ターニャが現れ、さっさとリュートを持ち去ってしまった。
 さすがにチコが個人的な趣味で即座にリュートを用意できるはずがなく、本職の彼女に借りていたものらしい。

「うおおおおおお……!!」

 最後の望みである楽器すらも失ったチコは膝から崩れ落ちる。
 こうして『月歌を紡ぐ者たち』から表現の自由は失われてしまった。
 その後チコは片付けが終わらないからと宿の娘アンナに酒場の片隅に追いやられ、以上で茶番は終了である。

「アンナ、バリーがどこに出かけて行ったか分かるか?」

「確か治安隊詰所だったかと。バリーさん、転職するんですか?」

「それはないと思うが……ともかく、ありがとう。オレも少し出かけてくる」

 いつもの黒い外套を羽織り、フードを被ったコヨーテは雨の降りしきるリューン市内へ足を踏み出した。
 治安隊の詰所はそう遠くない。
 とはいえ雨脚も弱くはないので外套だけでは防げないのだが、そこはモーガンの踏み倒しが効いているのか、まったく消耗を感じない。
 ともすれば不気味にさえ思えるが、これが正常なのだと無理やり自分を納得させた。

 治安隊詰所に着くと、先の依頼で顔見知りとなった隊長を訪ねた。
 一昨日の仕事でコヨーテの顔は知れていたようで、すんなりと通された。

「――ん? 『月歌を紡ぐ者たち』の……たしか」

 依頼を請ける際に自己紹介は済ませたはずだが、コヨーテはもう一度名乗った。

「そうだった。一昨日はご苦労だったな。何かあったのか?」

「昨日と今日、うちの仲間がここに来なかったかと」

「ああ、来たよ。囚人に面会したいというから、部下の立ち合いの下で話させた」

「囚人に、面会――?」

 よくない予感が当たっている。
 バリーは経典の謎を解き明かして情報を流すために治安隊に行ったのではない。
 むしろその逆、謎を解き明かすピースを得るためにここへ足を運んだのだ。

 コヨーテもまた件の囚人に面会を希望すると、意外とすんなりと通った。
 隊長自らが牢獄まで案内してくれた。
 丸一日経過しているのに尋問がうまく進んでいないのだろうか。
 あるいは以前のバルムスが起こした不祥事の件が効いているのか。

「おい、面会者だ。千客万来だな」

 薄暗い牢獄にはバリーの姿はなく、口数の少ない陰気な牢番が一人だけしかいない。
 入れ違いになったのかもしれないなと、と治安隊隊長が呟いた。

「あまり長時間はいかんが、訊きたい事があるなら話せ。存外口が堅くてな。係の者も手こずっているようだから、お前に何か漏らすようなら儲けものだ」

 隊長の後半の言葉は囁きに近かった。
 帰りは牢番に声をかけろ、とだけ残して隊長は去っていく。
 牢番の小柄な男は彫像のように微動だにせず壁際に控えている。

「貴方は、あの時の――」

 牢に沈殿した闇の中、青い服を身に着けた女司祭は人の気配に顔を上げた。
 女司祭を前にして内面を顔に出さないよう、コヨーテは考えを巡らせる。
 バリーがここに調査に来たのは間違いない。
 この女司祭こそがあの書物について多くを知っている可能性は高いのだから。
 だが、この司祭は危険だ。
 慎重に、慎重に交渉しなければ確実にバリーに害が及ぶだろう。

 この女から、どれくらいの情報を引き出すべきなのか?
 禁断の果実を手にして、自分たちに得るものはあるのか?
 なんだってコヨーテは何の考えもまとめずにここに立っているのか?

「冒険者様」

 コヨーテの内心を知ってか知らずか、女司祭は静かに呼びかけてきた。

「命乞いをする気はありませんが、冒険者様と、あのお仲間の方なら……わたくしの話を聞いていただけるのでは、と思うのです」

「どうしてそう思う」

「あの方は仰っていました。冒険の中、何度も死ぬような思いをした、と。視線を潜り、何度も生きる意味を考えた人になら、教団の教えに真実がある事を分かって頂けると――」

「――オレは空色教団に真実があるとは思わない」

 きっぱりと否定した。
 伝え聞く所業の数々を思い返せば共感の余地はなかった。

「……それは冒険者様が外側しか見ておられないからです」

 だのに、女司祭は構わず話を続ける。

「外側? ……どういう意味だ」

「人々は教団を邪悪と言う。では、おのれの所業を全て自分の意思で為し、受け入れているものなどいるでしょうか?」

 半分はヒトならざる者の血が入っているコヨーテにとってはとても答えられるものではない。
 ことさら吸血鬼という種は運命に翻弄される種族なのだから。

「生まれ、育ち、生き抜くために。人は与えられた役割を演じます。人の言う正義も、その役割のひとつです」

 耳を傾けるな、と思う。

「教団はこう考えています。人は創造主の造り出した入れ物にすぎない」

 狂った世界の言葉は特に独特のリズムを持って正常な心を侵す。

「入れ物である我らが為す事も、創造主が書かれた筋書きの上の事。一つ一つに正邪はない」

「……っ、違う!」

 屋根裏部屋で触れた、あの書物の不気味な手触りがコヨーテの警戒心を呼び戻した。
 顔も知らない創造主が書いた筋書き通りに生きているなど、認めるわけにはいかない。
 コヨーテの吸血鬼としての生を操ろうとする存在に心当たりがあるだけに、コヨーテの心は強く反発した。

「私は――」

 女司祭は囁くように言った。

「遠からず処刑されるでしょう。それに後悔はない。ただ、貴方やあの方のような、真実を見る勇気のある方に一抹でも……教団の想いを伝えたいのです」

「バリーを……! お前の歪んだ世界に引きずり込むな!」

 氷のように冷静であろうと努めたのに、できなかった。
 憤りが心を揺らした。
 
「言葉だけは綺麗で、人を思い通りにしようとする連中をたくさん見てきた。オレたちはもうそんな奴らの思い通りになんかならない……!」

 女司祭の瞳は昏く陰り、コヨーテの言葉に顔を俯かせる。

「それでも。貴方とあの方はもう一度ここへ来るでしょう。それが、創造主の書かれた筋書きなのですから――」

 俯いたままで女司祭は呟いた。
 声音は変わっていないのに表情が見えないだけでやたらとうすら寒い何かを感じる。

「おい、冒険者。時間だ。これ以上の面会は許されない。日を改めろ」

 牢番の声にハッとしたコヨーテはなおも俯き続ける女司祭から目を逸らす。
 そのまま牢獄から出て治安隊の詰所からも離れる。
 篠突く雨が降り続く路地を歩く。

 自分があの女司祭に言った事は真実だろうか?
 自分はバリーの事をどれほど分かっているのだろう。

 経典に没頭し、あの女司祭に会いに行ったバリー。
 『いつもと違う』と感じたバリー。
 いつものバリーと今のバリーと、その境目はどこにあって、自分はそれを見極め切れるのか。

「………………」

 あの女司祭が何を心に秘めていようと、バリーに害が及ぶような事は止めなければならない。
 そう心に決める。
 それを成し遂げるには、どうすればよいか。

「――決まっている」

 仲間が危険に踏み込もうとしているなら、その傍で罠を見張る役目が自分だ。
 どんな罠が潜むか分からない場所であっても誰かの目、耳になる事はできるし、この身体を盾に出来る。
 取るべき道が決まれば、思考は澄み渡り、いつもの調子が戻ってきた。

 鬱陶しくまとわりついてくる雨を押しのけて、コヨーテは宿への帰路を急いだ。



 篠突く雨が煙る中、治安隊の牢獄へ足を踏み入れたバリーは静かに歩を進めていく。
 任務に忠実な牢番の男は壁際に控えて、決して目を離す事無く牢を見張っている。
 しかし、その目は焦点を結ばず、その耳には何の音も届いていない。

「また、来てくださったのですね」

「……気持ちの悪い言い方だな。好きで会いに来たわけじゃねぇ。そろそろ治安隊への面会の言い訳も尽きてきた。あと一回が限界だろォな」

 女司祭は薄く笑った。

「牢番の方も、そろそろ率直なお話をしても問題はありませんわ」

「……、」

「好きでもないわたくしに会いに来てくださる目的――お読みになったのでしょう、経典を」

「ああ。創造主の『入れ物』、自由意志の幻想。真実を受け入れ、得る力……」

「興味がお有りですか。真実の世界に。創造主の筋書きに」

 厚い雲に遮られながらも弱弱しく届く西日が陰影を作った。
 バリーの表情は闇に沈んでいる。
 女司祭の眼は澄んでいて、西日を反射している。

「貴方様に真実をお見せする方法がひとつだけあります」

「ほう?」

「わたくしと空色の教えを信じ――ここから解放してくださいませ」

「そりゃあ不当に高い取引だ。こちらが得るモンが何もねぇ」

 それに、とバリーは背後の壁際に佇む牢番を一瞥した。

「牢の中からこれほどのを使いながら、一人では逃げられませんなんて言うつもりか? ネコかぶりもいい加減にしろ」

「……教えなど……一人では、力弱く儚いものなのです。あのお仲間の方も大層怒っておいででした。あなたを巻き込むな、と――」

 コヨーテか、とすぐにバリーは理解した。
 それからしばらく考え込み、時折石の床に触れて暗闇の中でなぞってみたり、扉に触れてみたりした。

「コヨーテはまっすぐだから死ぬまで……いや、たとえ死んでも是とは言わねぇだろう。誘惑するなら、まだ俺のほうが分があるぜ」

 再び、女司祭はうすく笑った。

「……あんたの名は?」

「それは貴方の願いが叶う時にお教えしましょう――」



 宿に戻ってもバリーの姿はなかった。
 好都合とばかりに彼が屋根裏部屋に残していった経典の翻訳メモを拝借し、自分なりにまとめ、写しを作ってみた。
 専門外の仕事は苦痛でしかなかったがやむを得ない。

 窓の外を見てみると、相変わらずの雨で正確な時刻は分からない。
 しかし夜通しかかってしまった事は間違いなさそうだ。
 寝不足ではあるが休んでいる暇はない。
 一夜漬けでまとめた資料を手に、コヨーテは階段を降りる。

「コヨーテ、おはよ……って、なんかやつれてない?」

「そんな事はない」

 仲間たちは変わらずいつものテーブルを占領している。
 しかしやはりその中にバリーの姿はない。

「親父、バリーを知らないか?」

「屋根裏を片付けて出かけて行ったよ。帰りは遅くなるらしいが」

「そうか……」

「お前さんらは『大いなる日輪亭うち』じゃベテランだからな。言わずもがなだろうが、意見の不一致やら仲違いやら……そういうものは仕事の前に片付けておくんだぞ」

「……んっ? ああ、そっか」

 言われて、バリーの事なのだと気付いた。

「そんなのじゃない。ちょっと入れ込んでて気になっているだけだ」

 ならいいが、と宿の亭主は頷いて、人数分の朝食をテーブルに置いた。
 白パンに炙ったソーセージ、あまりもののスープという無難なラインナップだった。
 腹ごしらえは大事だ。
 コヨーテはひとまず皆と一緒に朝食を頂いた。

「……これを見てほしい。みんなに相談したい事がある」

 食事がひと段落した辺りでコヨーテは本題に入る。
 経典についての資料を広げ、昨日までの出来事を話した。

「これがその経典の一部という事ですか」

「確かに、何か危険な感じがするわね。邪悪な儀式について書いたような……」

「バリーがどういうつもりか知んないけどー、これの解読に必死になる理由がわかんないねー?」

「でも、らしくないですね……治安隊の仕事に首を突っ込んで、しかも私たちにも何も言わず」

 やはり彼女らも伊達に長く同じパーティで冒険していない。
 ここまではコヨーテも同じ思考をしている。
 しかしおよそ一日分の思考時間があるコヨーテは、更にその先に進んでいた。

「……治安隊のためではなく、自分のためですらないのだとしたら?」

「それは……どういう?」

「昨日、チコの話を聞いていて思ったんだ」

「えっ、えっ、えっ!?」

「チコ、話の流れ的にあなたに才能があるって方向じゃないですから動揺しなくていいです」

「いいから座ってな、ほらほら」

 チコは唇を尖らせて不機嫌そうに椅子に座り直す。

「それだけじゃなくて、写しのメモを作っての仮説なんだけどな」

「で?」

「抜くと呪いに支配される魔剣、邪な意思に憑りつかれる宝石……物語によく出てくるだろう?」

「そういえば呪いの道具ならコヨーテも引っかかったよね。で、バリーが持ち帰ったあの経典が呪われた品物だっていうの?」

「オレはそう考えている。人の心を操作するような魔法の品かもしれない」

 あの女司祭と直接会って話した経験がなければ至れなかったかもしれない結論だ。
 思えば彼女の語り口は非常に巧妙で、ともすれば会話だけで掌握されかねないほどの不思議な魔力を持っていた。
 だが、バリーがおかしくなったのは経典を読んでからで、女司祭に会って話をしたのはその後だ。
 強弱はともかく、あの経典に何らかの細工がしてある可能性は大いにある。

「世界にはこの世の法則とは違う文法で書かれた本もあって、そういうのは読み進めていくだけで正気でいられなくなる……と聞いた事もある」

「話を聞いていると、むしろバリーが言い出しそうな説ですね……」

「推測だから裏付けが必要だ。クロエの知り合いに信用できる魔術師がいると聞いている。そして魔法の品にも通じているらしい。その魔術師に助言をもらおうと思う」

 『大いなる日輪亭』で最も他の魔術師と繋がりを持っているのは『陽光を求める者たち』の魔術師にして最年少のクロエである。
 なお宿内で随一の腕を持つ魔術師といえば『星を追う者たち』のレギウスだが、彼はそういった交流をほとんど断っているようだった。

「魔術師の名はバンディッシュ。ただし昼は寝ているらしいから、会えるのは夜だ」

「了解」

 冒険者たちは頷き合った。
 蛇の道は蛇、こういった手合いは専門家に見てもらうのが一番手っ取り早い。
 魔術師バンディッシュへの連絡は夕方からになるため、コヨーテはいったん仮眠を取る事にした。

 そして厚い雲の向こうで陽が沈んだ時分。
 バリーを覗いた『月歌を紡ぐ者たち』は酒場の隅、壁に囲まれ、声が漏れにくいテーブルを選んで魔術師を待った。

「――来た」

 撫でつけたような茶髪が特徴的な長身の男こそが魔術師バンディッシュであった。
 余談だがどことなくバリーに雰囲気が似ている気がする。
 それはともかく、早速バンディッシュを二階の屋根裏部屋に案内した。

「うーん、想像以上にむさくるしい場所だ」

 最初はかなり面倒そうな顔をしていたバンディッシュは、コヨーテから事情を聴き経典の写しに目を通すうちに何かに心惹かれた様子で、実物の経典を見せてほしいと言った。
 かくして、この魔術師は『大いなる日輪亭』まで押しかけて来たわけである。

「バリー……やはりまだ帰っていないんだな」

 魔術師バンディッシュは顎に手を当てて、何かを思索するように辺りを見回す。
 そしてテーブルの上に放置された経典を見つけ、それを手に取った。

「それが話して聞かせた問題の本だ」

 冒険者たちが見守る中、バンディッシュは経典を持ち上げたり明かりにかざしてみたり、注意深く指で触れてみたりした。
 その後、ほうほうだとかなるほどだとか独りごちながら、胸ポケットから鋳掛眼鏡を取り出す。

「ああ、ちょっと本を開いて持っていてくれ」

「は、はい」

 経典をルナに持たせて、おもむろに中身を検分し始めた。
 ややあって鋳掛眼鏡を仕舞いこむと、彼は小さく肩から力を抜く。

「何か分かったか?」

「――しっ、息を吹きかけないように」

 ルナに経典を閉じさせて、バンディッシュは顎に手を当てて唸った。

「驚いた。君たちの言う通り、これは強力な魔法の品だよ」

「それだけでどういうものなのか分かるの?」

 魔術師バンディッシュはしばらく考えていた。
 魔術の門外漢に、どう説明すればいいか言葉を選んでいる様子だ。

「……噛み砕いて言えばこの本には魔法で空間が括り付けられている。引き出しに様々なものを隠すように、この本には……そうだな。大きな城ひとつ分ほどの魔法的な空間が封じ込められているのだ。まさに、本の中に作られた牢獄だよ!」

「城一つが本の中に……そんなこと――」

 ハッとして、ルナは口を噤んだ。
 有り得ないとでも言いかけたのだろうが、それとよく似た魔具をすでにコヨーテが手にしている事を思い出したのだろう。
 現実味が薄くて絶句したと思ったのか、バンディッシュは言葉を重ねる。

「古い魔法は時に想像を絶するのだ。わたしの専門分野だから間違いはない……さて、さらに興味深いのは君たちが唱えていた説。この本に人を操るような効果があるか……結論から言うと、分からないな。だが、本の中の空間には大きな魔力を感じる。真相を知りたいのなら、これをわたしに預けてくれれば三日ほどで完全解明してみせよう。あるいは――」

 バンディッシュは経典を指し、

「この書物の中に入り込んで調査する以外にないだろうね」

「そんな事ができるのか?」

「もちろんだとも。言わなかったか? この辺はわたしの得意分野なのだ」

 ふん、とバンディッシュはドヤ顔を決める。

「さて、珍しいものを見せてもらったから出張料はサービスしておくが、どうする冒険者? この本の中の世界に入ってみるかね?」

 『月歌を紡ぐ者たち』は顔を見合わせた。
 予想外の展開ではあったが、想像以上の手がかりだ。
 しかし専門の魔術師が外からではこれ以上の情報が得られないと断言するのであれば行くしかない。
 虎穴に入らざれば虎子を得ず、というやつだ。

「分かった。中を調べてみたい。どうすればいい?」

「単純な魔法で入り口は開ける。君たちを送り込むのも簡単だ」

「……出る方法は?」

「そこは君らで探してもらうほかないな。何しろ外側からじゃ内側を覗けないのだから」

「待ってよ、それじゃあ魔術師抜きで魔術の迷宮に挑戦するの? それはいくらなんでも無謀じゃない?」

 レンツォの言う事ももっともである。
 かくなる上はレギウスかクロエに協力を仰ぐべきか、とコヨーテは思い至ったが、彼らはどちらも外出しているため帰りを待たねばならない。
 そうこうしている内にバリーが手遅れになってしまっては仕方がない。

「ん? 魔術師ならそこに居るだろう」

 なのだが、しれっとバンディッシュはチコを指して言ってのけた。
 突然指名されたチコはというと、表情を強張らせて汗を流し始めている。

「……は? いや、何かの間違いでしょ。そいつは狩人だよ、魔術とかはド素人の」

「そんな事はないはずだ。事実、クロエ嬢から聞いた話だ」

「い、いや……え? マジ? マジなのチコ?」

「えーっと……、クロちゃんなんでばらしちゃうかなぁー……」

 観念した風にチコは肯定した。

「嘘だろ!? いつの間に!? ってか教団の本拠地で魔術書読んでたのって……まさか!?」

「だから最近いろいろやってるって言ってたでしょー。正しくは五月祭の後くらいからだけどさー、みっちり勉強してー、クロちゃんやレギウスにも手伝ってもらっててさー、ちょっとしたサプライズのつもりだったんだよーーー!」

 図らずも最悪の形で成果をバラされたチコであった。

「腕前を見ていないからオレは判断できないな……チコ、いけるか?」

「あーもう! だいじょーぶ! バリーの代わりくらいやってやるよぉー!」

「そこはかとなく……いや、明確に不安なんだけど。いくら二ヶ月間勉強したって言っても知識量が足りないでしょ」

「別に問題ないだろう。さっきも言ったがこいつは『牢獄』なのだ。そこに自由に歩き回れる人間が五名もぞろぞろ入り込むなんて想定されていないはずだ」

 専門家バンディッシュが言うのなら間違いはない、のだろう。
 内側を窺えないとは言っているが、牢獄の性質についての知識はやはり大したものだ。

「まー、実は『真紅のリボン』についてもレギウスから理論は聞いてたから、に関してはたぶんバリーよりちょっと詳しいっていうか」

「なんだ、それなら迷う必要はないじゃないか」

 少なくとも現状ではチコほど本の中の牢獄に向くメンバーはいないだろう。
 事は一刻を争う状況で、これ以上は望めるべくもない。

「決まったか。ではこの本の上に手を置いて、呼吸を楽にするんだ」

 言葉通りに全員でテーブルを囲むようにして経典の上に手を重ねる。
 二度三度と呼吸をするうちにバンディッシュのカウントダウンが始まり、やがて視界は闇に閉ざされた。


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『迷宮のアポクリファ』(1/4) 

 怒涛の七月七日も終わり、翌八日をはしゃぎすぎたツケを回収する日に充てた『月歌を紡ぐ者たち』は、九日より活動を再開した。

「……暗いなぁ」

 しかし、どうやら請けた依頼がよろしくなかったようだ。
 『月歌を紡ぐ者たち』は今、リューン治安隊の依頼で地下の下水道の暗闇に身を潜めている。

 冒険者ならば周知の事ではあるが、リューンの下水道は古代文明期の遺跡を転用した広大な迷路だ。
 リューン治安隊はこの地下下水道内に、ある過激なカルト教団の拠点を発見した。
 そして今日、雇い入れた冒険者と共にまさに強制捜査を実行に移す段階なのである。

「この時期に下水道を拠点にしているとなればまともな相手とは思えないわね」

「……相手に夜目の利く連中はいるのか?」

「治安隊の話では『終末の空色』は過激さで急拡大したカルト教団らしいが、吸血鬼や人外の類はほとんどいないらしい」

「聞いてた話がその通りだった事ってなぜか少ないんだよね……」

 自らの足で集めていない情報を信頼しすぎるというのも考え物だ。
 世の中そう上手くはできていない。
 時には与えられた情報を頼りに急場に赴く場合もあろうが、しかし度が過ぎるとやはり愚痴のひとつも吐きたくなるものだ。

「だがまぁ、問題はねぇだろ。なぁコヨーテ」

「あぁ、この程度の光量でも十分だ。何が出てきてもきっちりみんなの眼になるさ」

「なんならあんた独りで薙ぎ倒してきても構わないわよ」

「軽く言うなよ、神剣使い殿」

 そう言ってコヨーテは笑い、対するミリアは唇を尖らせて唸った。
 つい数日前にミリアが手に入れた【海神の双剣】はその名の通り神剣と称されるほどの業物であるが、彼女がそれを手に入れるために八〇〇〇枚もの銀貨を支払っている。
 当然ながら個人の財布に眠っているはずもない大金であり、パーティ資金から技術交渉や術式指南のように未来への投資という形で支払われているものの、ミリア当人からすれば単なる借金だ。
 ゆえに、そこを突かれれば痛いのである。

「オレたちの役割は『終末の空色』教団員の逃亡阻止だ。暴れるよりも視界を広く保つほうが重要だよ」

 何しろ広大な地下下水道内は天然の隠れ家である。
 治安隊といえど、教団拠点に踏み込んだ後に信者の逃亡を許せば遺跡探索に長けた冒険者に頼るしかない。
 ゆえに最良の展開は初手で一網打尽にしてしまう事だ。
 そのために『月歌を紡ぐ者たち』は闇の中で息をひそめ、治安隊の合図を待っている。

「『終末の空色』……、一応の説明は聞きましたが実際のところどういう人々なのでしょう」

「下調べする時間もなかったからな。治安隊に聞いた以上の事は噂程度でしかねぇが、昔、ある筋から聞いた事がある――」

 バリーはそう前置いて、

「空色教団の主張はこうだ。『人間などの言葉を持つ生き物は本当は創造主が何かを成すための入れ物であり、「自分」であるとか「自由意志」なんてものは存在しない。それに気づいた人間は世界を変えるだけに十分な力を手に入れられる』――だとよ」
 
 言い終えて、肩を竦めた。

「……正直、何を言っているのか理解できません」

「なんか酒場の酔っ払いが言ってそう」

「近いんじゃねぇの。本当に世界を変えられると信じて人を殺して回ってなけりゃァな」

「それにしても『終末の空色教団』ってさー、ちょっとかっこよくない? 語感がいいよ語感がー」
 
「……、おしゃべりはこの辺にしておこうぜ」

 バリーはちょっと頭痛にでも苛まれていそうな顔をして言う。
 そんな折、遥か前方の暗闇に小さな光が浮かび上がった。
 合図だ。
 コヨーテを先頭に、『月歌を紡ぐ者たち』は一気に迷宮の闇へと身を躍らせる。

「総員突入! 三班は通路を封鎖!! 冒険者――奥への通路がある! 君らはこの奥を頼む!」

 合図を送らせた治安隊員が矢継ぎ早に指示を出している。
 さすがに準備は万全だったらしく、その指示を聞く限りでも順調に包囲は進んでいるようだ。

 治安隊の突入は成功した。
 不意を突かれ、拠点にいた教団の信者たちは慌てふためいている。
 だが、それでも浮足立つ事もなく得物を手に状況を把握しようと努める教団員の姿も見て取れた。

「思った以上に戦える奴らが揃ってやがる。奇襲の効果も長くは保たねぇだろォな」

「――急ぐぞ!」

 号令と共にコヨーテとミリアが躍り出る。
 それぞれが魔剣と神剣を振るい、未だに戦意を保っている教団員を打ちのめし、武器を奪っては戦意を刈り取っていく。

 この場において『月歌を紡ぐ者たち』の役割は何を置いても逃亡の阻止だ。
 遣り手がいようが一撃さえ入れてしまえば後は後詰が何とかするはずだ。
 無為に時間をかけて倒しきる必要はない。

「コヨーテ! あれッ!」

 乱戦の最中、目ざとく地下への脱出口を発見したのはレンツォだった。
 正確には迷いなくある方向へ向かう教団員数名が向かう様子を捉えていた、というのが正しい。
 目の前の相手を手早く切り上げ、『月歌を紡ぐ者たち』はそちらへ走り、そして追いついた。

「……! 貴方たちは――」

 冒険者たちに反応したのは、他の団員よりもやや立派な僧服に身を包んだ少女だった。
 あれが事前の情報にもあった女司祭――実質的な教団のリーダー――なのだろう。
 絶対に逃亡を阻止しなければならない、空色教団の重要人物だ。

「わずかな報酬と幾ばくかの正義感によって立ちはだかる事になった名もない冒険者、ってところだ」

「……そう、ですか。選ばれし次の『入れ物』というわけではないのですね。残念ながら――」

「明かりは足元に落とせ!」

 いつもの通りコヨーテは右から、ミリアは左から切り込んだ。
 女司祭の前には武装した教団員が立ちはだかる。
 しかし真なる魔剣と神剣を操るコヨーテとミリアの前にはわずかな抵抗も無意味だ。
 ほとんど一撃二撃で叩き伏せられ、倒された傍からレンツォが縄で一人ずつ縛っていった。
 出会い頭に形勢が傾いた事で浮足立った教団員は女司祭をどうにか逃がそうと人の壁を作る。

「逃がすか!」

 人の壁だろうがこじ開ける方法はある。
 盾を持って立ちはだかる教団員に対し、コヨーテは【レーヴァティン】での一撃を加え、その刀身から迸る火炎を浴びせた。
 怯んだ隙に盾ごと蹴り飛ばして人の壁に突っ込ませる。
 それだけ足並みが崩れてくれればその合間を縫ってミリアが女司祭へと辿り着けるのだ。

「っしゃ! 挟み撃ちよ!」

 ミリアは即座に女司祭を蹴り飛ばし、レンツォに拘束させた。
 その後も空色教団は猛然と抵抗したが、場数を踏んだ『月歌を紡ぐ者たち』にかなうはずもなかった。
 間を置かず治安隊の救援が駆けつける。

「こっちだ隊長さん、教団のリーダーらしき女を捕えた!」

「いいぞ、手柄だな! 一班続け、目標はここだ!」

 号令によって治安隊が集まり、瞬く間に女司祭は囲まれ、拘束された。
 リーダーが無力化された事で士気がガタ落ちした空色教団は抵抗も弱くなってきている。
 同時に『月歌を紡ぐ者たち』の役割もほとんどやり終えたという事だ。

「………………」

 まだ年若い少女のように見える青い装束をまとった女司祭は黙って床に跪いている。
 すでに武装は剥ぎ取られ、周囲の信者たちももはや抵抗する術もない。

「『終末の空色』教団。ペルージュでの貴族殺害、アルエス城塞都市での殺人教唆、禁呪密売、人身売買への関与、その他多数の容疑で信者全員の身柄を確保する!」

「……、です」

「んっ? 女、今なんと?」

「瞳を持ちながら、世界のほんとうの姿を見ない方は不幸だ――と、そう申し上げました」

 追い詰められ心を壊したか、女司祭は気が触れたような言葉を吐いた。

「……一班、容疑者を連行。簡単に死なせたりなどするなよ」

 女司祭はもはや目立った抵抗を見せない。
 隊長は後処理を部下に任すと、女司祭を含めた幹部連中を連行していった。
 『月歌を紡ぐ者たち』が結んだ契約は教団員の連衡が全て済んだ後だ。
 治安隊の仕事が終わるまで待つ事になる。

「……、」

 連行されていく女司祭とすれ違う時、彼女はコヨーテにうすく笑って見せた。
 邪気のない、少女のような微笑みだ。

 それがかえってコヨーテの心を揺さぶった。
 空色教団は壊滅し、数多の罪状から彼女が死罪を免れる術などない事は誰の眼にも明らかだ。
 だのに、なぜ笑えるというのか。

「ああ、アルコーブに本棚があるぞ。かなりの蔵書だ」

「相変わらずよく見ていますね。しかし、ここから先は治安隊の仕事では?」

 バリーはルナの言葉など耳に入らぬように本棚の蔵書を吟味し始めた。
 急に現実に戻されたような気がして、コヨーテもバリーのほうへ気を向ける。

「……何か気になるものでもありそうか?」

「少し待て。っと……」

 いつもの書痴っぷりを発揮するバリーは放っておくしかない。
 手持ち無沙汰になったコヨーテも適当に本棚の背表紙に目を通す。

 コヨーテが目にした本棚には神秘学の書物が詰め込まれていた。
 人狼、吸血鬼、竜といった類の生命力の秘密を解明し、人間の役に立てようという趣旨のようだ。
 嫌な予感がするものの、一冊を手に取って中を改めてみるが、

「獣人や吸血鬼の子供を攫ってきた記述か……いや、酷いな」

 生命を冒涜するような実験・交配を始めとした残虐非道の数々。
 半吸血鬼であるコヨーテの心胆をすら寒からしめる陰惨なものが記されていた。
 こんな手段で血の呪いを操れるのなら誰も苦労はしない。
 コヨーテは黙って本を閉じ、本棚に戻した。

「こっち医学書だねぇ……んー、これはルナは見ないほうがいい」

「どんな内容なの?」

「人体を腑分けして魔法儀式の部品にするような……まぁ、まともな医者の技術じゃないよ。どうも攫ってきた人たちを犠牲にして教義の実験をしていたみたいだ」

「ひええ……」

 淡々と書かれた医学書の群れは、その全てが生命を冒涜する悪意に満ちていた。
 当たり前だが聖北の教義には思い切り歯向かっているわけで、純粋で敬虔な教徒であるルナにとっては特に刺激が強すぎる。

「あー、こっちはもっとひどいからー、ルナはもう本棚に近づかないほうがいいよー」

 バリーの近くの本棚を漁っているチコはそう言って本のページを捲っていた。
 本棚の背表紙に目を向ければ『死霊術』や『魔神召喚術』の文字があり、もはやそれだけでまともじゃない。
 誰もが一度は耳にした事があるような禁術のオンパレードだった。

「教団には重要な魔具アーティファクトを保管する、とか書いてあるねー。記述から見るに、どうも魔神に関連した祭器みたいだけど……」

「え? マジ? チコそれ読めるの? 適当言ってない?」

「この魔具はどうなったんだろー? 他の拠点に隠されてる、とか?」

「ナチュラルに無視しやがったこの野郎……」

 どちらにせよこれからは治安隊の仕事だろう。
 教団にとって重要なものであるなら迂闊に書物に残しているはずもない。

「――これは教団の経典みてぇだが」

「何かあったのか?」

「奇妙だとは思わねぇか? 空色教団は決して歴史ある教団じゃない。むしろ新しい。だのにこの経典は書かれてから一〇〇年は優に経っていて、しかも魔術師にすら難しい古代語で暗号化されている部分もある」

「つまり?」

「分からねぇ。詳しく調べてみる価値はありそォだ」

 バリーは治安隊の目を忍んで経典を荷物袋に忍ばせた。

「ちょ、それはさすがにまずいでしょ」

「静かに。捜査上有用な情報があれば上手く治安隊に流すさ」

「そうじゃなくて。教団の本拠地なんだから危険なものもあるだろうし、普通に考えたらここから出る前に身体検査あるでしょ」

「……、コヨーテ」

 そう言ってバリーは経典をコヨーテに差し出した。

「片棒を担げというのか……」

「頼んだ」

 小さくため息を吐いて、コヨーテは経典を受け取った。
 自らの銀髪を束ねている真紅のリボンへ意識を集中すると、経典は白い霧と化してその姿を消失させる。

 真紅のリボンは『星を追う者たち』のリーダーにして魔術師であるレギウス・エスメラルダにより超大型移送用魔具『神族の帆船スキーズブラズニル』の帆を用いて造り出された簡易型魔具である。
 吸血鬼の性質を理解した者が身に着ける事で、あらゆるものを白い霧に変換した上でリボンの中へ格納する事が出来る。
 この力で経典は見えない場所に隠されたのだった。

「――撤収!!」

 遠くで治安隊員の声が上がる。
 どうやら全ての教団員の連行が終わったようだ。
 レンツォの予想通り危険物や重要参考物の持ち出しがないか身体検査が行われたものの、見事に経典は隠し通した。

「今回だけだからな」

「分かった分かった」

 こうして『月歌を紡ぐ者たち』はリューン治安隊からの依頼を完了したのだった。



 翌朝、コヨーテはあまりいい寝覚めではなかった。
 地下迷宮の冷気が身体をすっかり冷やしたのか、空色教団の所業が夢見を悪くしたのか。
 ともかく、もう少し惰眠を貪りたい気持ちもあるにはあったが、仲間たちはもう起きているような予感がしてコヨーテは身体を起こした。
 手早く準備を済ませると、コヨーテは階下へと降りていく。

「お、コヨーテ。おはよう」

「おはよう。みんな早いな」

 おおよそいつもの面々が朝食を前に談笑したり、なにやら準備をしたり、貼り紙を眺めたりしていた。
 コヨーテはカウンターが着くと、宿の亭主エイブラハムから紅茶が供された。

「感心感心。昨日は治安隊の仕事で切った張ったがあったというから疲れているのかと思っていたぞ」

「それはそうなんだが、なんだか眠りが浅くてな」

「ほう? いつもと違うと感じる時はことさら気を付けたほうがいいな。些細な差が致命的な状況を呼ぶ事だってあるからな」

「……なんかやけに真面目じゃないか」

 茶化すなよ、と不満げな亭主の声を聞き流しながら、コヨーテは紅茶に口を付けた。
 普段味わい慣れない変わったフレーバーだ。
 どうやら新葉らしい。

「一仕事終えた後なんだ。みんなゆっくりしていると思ったが」

「うーん、そうなんだけどね……依頼って、いわゆる波があるでしょ。昨日までろくな依頼がなかったのに次の日は美味しい依頼が次々来るとか」

「ああ、たまにそういう日もあるな」

「昨日まではろくな依頼がなくて、請けた依頼も冷たい下水道で一日仕事だったから、今日辺りで波が変わっていい依頼が張り出されるかと思ったんだ」

「納得。で、早起きの結果は?」

「全滅だよ。下水道掃除、銀貨二〇〇枚からのゴブリン退治、新薬の実験台。嫌な予感しかしないのばっかりさ」

 だろうな、とコヨーテは頷いた。
 長く冒険者を続けていればそううまくいかない事くらい理解している。
 もちろん、希望を見出したレンツォもあまり落胆している様子がないのも、彼もまた理解しているからなのだ。

「それはそうとコヨーテ。今日は午後から雨になるわよ」 

「今は晴れているみたいだが」

「樹精はそわそわしているし風精は低く空を飛んでいて水精はざわつきだしている。空や森が教えてくれる事はたくさんあるのよ」

 そう言いつつ、ミリアは【海神の双剣】の柄を指の腹で撫でた。
 どうにも水精事件以来、彼女はそういった存在への理解を深めているらしい。
 海神の名を持つ双剣を得た事で拍車が掛かったのかもしれない、と彼女は言っていた。

「……何か嫌な予感がすると思ったらそれか」

 コヨーテはため息を吐いた。
 この感覚はよく当たる。
 どんな仕事を請けても、今日は雨に祟られるという事だ。

 実は七月八日に出逢った吸血鬼モーガン・ツァリによって流水への耐性を付与されているのだが、コヨーテは仲間たちにもそれを明かしていなかった。
 というのも、吸血鬼の言葉に全幅の信頼を置くのがどれだけ危険な事であるかを理解しているだけでなく、彼女が行った『踏み倒し』は呪いの無効でなく先延ばしであるからだ。
 水に濡れた分だけ痛みは蓄積し、いずれ――モーガン曰く一万年後――はその全てを身体に叩きこまれるのだが、問題はその『踏み倒し』が『叛逆者』によって破棄できてしまうという一点に尽きる。
 まだまだ『叛逆者』の制御には慣れていないのだ、いつ切れるとも分からない命綱に頼り続けるのも馬鹿らしい。
 そういった理由で無闇に水を被るわけにはいかないのだ。

「すぐ銀貨に困るというわけでもありませんし、今日は宿で過ごしますか?」

「雨降るんなら僕も外には出たくないねぇ」

 仲間たちにも今日はあまり仕事にかかりたくない空気が漂い始めている。
 ミリアが散在したとはいえ、今はもう『月歌を紡ぐ者たち』の財布はそれほど軽くもない。
 慌てる必要もないだろう。

「そういえばバリーは? まだ起きていないのか?」

「いえ、確か起きていますよ。えっと……」

「バリーなら屋根裏部屋を貸してくれとか言って、本を持って籠っているぞ」

「……本だと?」

 何か引っかかるものを感じて、コヨーテは席を立った。

『いつもと違うと感じる時はことさら気を付けたほうがいい』

 ついさっき宿の亭主が口にした言葉だった。
 そう、のだ。
 いつもであれば他のメンバーが魔法の品を見つけても慎重に扱うよう釘を刺すのはバリーの役回りのはずだ。
 酒場に顔も出さず、書物を持って部屋に籠る。
 些細な事だが、ひどく違和感を覚える。

「……少し様子を見てくる」

「ああ、屋根裏部屋に上がるんならバリーの朝食も持って行ってやれ。洗い物が片付かん」

 トレイに乗った熱々の食事を手に、コヨーテは階段を上る。
 『大いなる日輪亭』に屋根裏部屋は二つある。
 物置兼コヨーテの寝室として使っている部屋と、もう一つは訳ありの人物を匿う際にも利用する部屋だ。
 普段は滅多に立ち入らない屋根裏部屋のドアをノックし、中にいるであろうバリーへ声をかける。

「親父から朝食をもらってきたぞ」

「ああ、入ってくれ」

 ドアを開けると、薄暗い室内で蝋燭の乏しい明かりを頼りに本を読んでいるバリーの姿があった。
 彼がこうして書物に夢中になるのは今に始まった事じゃない。
 だが、それにしたってまるで隠れるように屋根裏部屋を使ってまでそうした事はなかった。

「そこに置いておいてくれ。後で食う」

 彼が指した机の周りにはメモや辞書が散乱していた。
 ブツブツと小声で独り言を続けながらページを捲る姿はいつも通りではある。
 しかしバリーの名を呼んでも手元の書物に没頭し続けて答えを返さないのは少し異常だった。

「……バリー! 聞こえているよな、昨日からずっとやっていたのか?」

 声を荒げて、ようやくバリーは書物から目を離した。

「……ああ、まあ。四刻ほどは眠ったか」

「その本――経典だとか言っていたな。一体何なんだ」

 バリーは即答しなかった。
 顎に手を当てて少しばかり考え込むと、

「難しいな。詩のようでもあるし、歴史のようでもある。長い魔法儀式のようにも思える」

 などと、彼にしては歯切れの悪い言葉を吐いた。

「……危険なものじゃないのか? 治安隊か賢者の塔に預けたほうが」

「いや。もう少し訳してみねぇと危険かどうかは判断できねぇ」

 普段なら何気ないバリーの返答。
 だが、それが強い拒絶のように聞こえてくるのは気のせいで済ませていいのか。
 真意を測りかねるが、だとしたら直感に頼るのが最善だとコヨーテは思考する。

「あの場所から無断で持ち出した、しかもあんなに危険な教団の書物なんだろう!? 聖北教会の過激派にでも知られたら、下手すれば――!」

 続く言葉を飲み込む。
 やはりおかしい。
 いつもならこれは、むしろバリーが言いそうなセリフではないか。

「……ああ、その通りだな。気を付けるぜ」

 いっそしおらしくすらある態度のバリーは、書物をテーブルの上に置いた。
 そして立ち上がり、自前の外套を手に取った。

「だが、あと少しで概要に手が届きそうなんだ。もう少しだけここに置かせておいてくれ」

「どこへ行くつもりだ」

「雨が来ないうちに、治安隊の詰所へな。確かめてぇ事がある」

「食事は」

「悪ィが食欲ねぇんだ」

 そう言い残してバリーは階段を降りて行った。

 独り残されたコヨーテは置き去りとなった経典を手に取り、ページを捲ってみた。
 狂気を感じさせるほど細かい文字。
 どこか異世界の気配を湛えた数々の挿絵、図。

 そして何より、手にしたその拍子の不気味な手触りが、コヨーテの背にうすら寒いものを呼び起こした。
 まるで魔物の肌に触れてしまったかのような、じんわりと不快に纏わりつく感触だった。
 読み解けるような何かが欠片もない事を理解したコヨーテは経典を閉じ、テーブルの上へ戻す。

「いつもと違うと感じる時はことさら気を付けたほうがいい……か」

 そう独りごちて、コヨーテは屋根裏部屋を後にした。


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周摩

Author:周摩
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